武士の仕事

武士の仕事 侍たちの意外な苦労

武士の勤労スタイル

天下太平の江戸時代、武士たちはそもそも、毎日何をしていたのか。
まず、武士の中枢を担っていた役職と言えば、老中である。
現在の会社に例えるなら、社長の下、専務や常務といった役割で、将軍の補佐役の大老を置かないときは、幕府の中でも最高の官職だった。
老中の他の重役には、若年寄(わかどしより)、大目付(おおめつけ)、寺社奉行(じしゃぶぎょう)、町奉行勘定奉行、さらにその下にも沢山の役職があった。
しかし、武士の全てが毎日お城に上がったわけではない。

意外と暇だった侍たち

奉行でも、登城するのは月に3〜6回程(町奉行を除く)。
定例会議や臨時会議、奉行同士の打ち合わせの時に城へ出勤するだけで、後は「役宅」といって、自宅で嘆願や沙汰を処理していた。
彼らのように、江戸城に出勤していた高級武士は、まだしも勤め人らしかったが、御家人やそれ以下の(かち)になると、仕事をしたくても、ろくに仕事がなった。
例えば、徒の場合、将軍や仕えている大名が、鷹狩りへ行くときなどに護衛として付いていくだけで、その他は門の警護をする程度だ。
その門の警護ですら交代制であり、仕事らしい仕事は3日1度程度だった。

勝海舟の父 勝小吉

それどころか、中には無役の武士もいた。
勝海舟の父である「勝小吉(かつこきち)」は無役の貧乏旗本だったが、する事がなかったからか、毎日酒場に入り浸っていたという。
最も、こうした下級武士は貧乏ではあったが、家が取り潰しになるなど、大事がない限り、将来に渡って給料が保障されていた。
退屈ではあるが、生活には困らないのだ。

勤番武士

江戸の大名屋敷には、地方の領国から「単身赴任」している武士が大勢いた。
「定府(じょうふ)」といって、長期間、江戸屋敷に勤務する幹部クラスは、妻子も一緒に暮らしいていたが、参勤に随行して、そのまま江戸屋敷に残った武士たちは、単身で屋敷内の「勤番長屋(きんばんながや)」で暮らしていたのだ。
割り当てられる部屋には、身分によって階級があり、上級武士であれば、一人一部屋が割り当てられたが、身分が低いと、大部屋で共同生活を送っていた。

勤番長屋の規則は厳しい

こうした勤番長屋の暮らしには、どの大名屋敷でも細かな規則が定められていた。
例えば、外出には届け出が必要で、遊山見物、茶屋、旅籠屋(はたごや)、湯屋へ行っていけない。
女性を連れ込むのは禁止、長屋内での賭け事も禁止されていた。
さらに、たとえ親戚であっても、他の物を泊めてはいけなかったし、音曲などの鳴り物も禁止されていた。
また、長屋を勝手に改造したり、湯殿や便所を新築してもいけなかった。

次第に不真面目になっていく侍たち

だが、江戸長期になると、こうした規則もルーズになっていく。
遊山見物や飲食を楽しむ者が増え、吉原へ遊びに行く者も多くなった。
また、門限(午後6時〜8時頃)を守らない者も増えていった。
門番に袖の下を渡して通してもらうようになったのだ。

夕方に藩邸を出ては、汐留から舟に乗り、向島の居酒屋で一杯ひっかけ、吉原へ繰り出す武士が増えていった。
また、芸者を連れて、屋形船で隅田川を遡り、どんちゃん騒ぎをする武士もいたようだ。
門限など関係なく、遊びまわる武士が増えていったのである。


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