冠位十二階

冠位十二階の制度

603年(推古11年)、推古天皇は飛鳥小墾田宮を造り、豊浦宮から移った。
そして、604年(推古12年)に「冠位十二階」を制定した。
推古朝が制定したこの制度には各地の豪族を大和の統制下に引き込む意義があったとみられる。

地位を色と階級に分けた制度

「冠位十二階」は日本で初めての冠位・位階で、地位を表す色別に分けた冠を授けたもの。
官僚制の確立を目指し、(氏ではなく)個人の位階を12の階級に分けた。
※位階が“氏”ではなく“個人”に対して与えられる為、位階は世襲されない

各地の人材を大和へ登用が可能に

冠位十二階が制定された事により、大和朝廷が各地の豪族に対し“地位を授ける”事が可能となった。
豪族たちの身分の取り決めに中央政府が介入出来るようになった事で、豪族を大和の制度の中に取り込み、結果的に豪族たちを大和の統制化に引き込む、という政治上の意義があったとみられる。
豪族らから見ても“冠位十二階の制度を受け入れ、その中で昇り詰めれば色々と得が出来る”という事だったのだろう。
※ただし、冠位十二階制定の意図は日本書紀の中には記されておらず、正確には不明である

位階制度は以降も改良が続く

647年(大化3年)に七色十三階冠が施行された事によりに冠位十二階は廃止となった。
しかし、完全な廃止ではなく、位階制度そのものはその後も残っており、改変・改良を重ねて律令制の位階制度となる。
地方から役人が中央に集まって国全体の政を司る、という中央集権の在り方が出来上がる重要な転機といえる。
※中央集権化ができてないと外国からは大和朝廷は政府として見てもらえず、また国内に置いても存在感を示せない

十二階の内容

『日本書紀』には十二階を具体的に書いている。
大徳、小徳、大仁、小仁、大礼、小礼、大信、小信、大義、小義、大智、小智のあわせて十二階で、階ごとにそれぞれ決まった色の絹(アシギヌといわれる物)を縫い付けた。
髪を頂きに纏めて括り、袋の様に包み込んで縁取りを付け、さらに元日には髻華(うず)という髪飾りを着けていた。

中国の歴史書にも冠位十二階が記述

中国の歴史書『隋書』倭国伝にも冠位十二階に付いて記されている。
冠位十二階は確かに制定されていたようだが、しかし、順序が『日本書紀』のものと若干異なっている。

朝鮮半島にも同様の制度が

個人に位階を付ける制度は高句麗・新羅・百済にもあった。
それは「官位」というモノで、日本の冠位よりも先に採用されていた。
「冠位十二階」の制度は朝鮮半島からも影響を受けていたのかも知れない。

制定の目的は明確にはされていない

制定の目的は『日本書紀』などの歴史書には明記はされていない。
ただ、この制度が大和にメリットが多くあったのは確かであった。
礼を上げると「豪族を施政下に置ける」「氏ではなく個人の登用であるため世襲はさせない」「外交官に役職を持たせておく」などなど。
冠位の中に取り込まれる豪族としては、取り込まれる事で「自分より下」の者を作る事も出来ただろう。
冠位を世襲させてしまったら将来、大きな勢力を生み出してしまうかも知れない。
外交官に役職が無いと、他国に派遣した際にみすぼらしく見えてしまうかも知れない。
など、意義は見当たる。

階位もない日本は外交で恥をかいていた

西暦600年に派遣された第一回遣隋使だが、これは日本側の歴史書である「日本書紀」には記述がない。
しかし、中国の歴史書「隋書」には、第一回遣隋使のことがハッキリ記されていた。
隋の文帝が使者に日本のことを訪ねた様子が記されている。
日本から自国の制度を「王は天を兄、日を弟として、日がのぼる前に政務をとる」と答えたようだが、これを聞いて中国は「何の制度もないようでは国とはいえない。相手をする価値もない」と呆れられてしまったのかも知れない。
故に第二回遣隋使の派遣の際には、ちゃんと十二階の冠位を定めてから、正式な使節を派遣したのではないだろうか。


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