朝廷より豊臣姓を賜る秀吉

朝廷より豊臣姓を授かる秀吉

織田信雄と和睦を結び東の脅威無くなった秀吉は、次の行動へ乗り出す。
朝廷から地位と「豊臣」姓を賜り、さらに関白、武士として平清盛以来となる太政大臣に就任する。
豊臣秀吉は天下統一へ向けて、大きく前進する事となる。

羽柴秀吉

羽柴秀吉

大坂城の造営

安土城より大きな城を欲した秀吉

羽柴秀吉は、自分の牙城を築く為に着々と準備を進めた。
先ずは、自らの居城となる、大坂城の造営を始める。
秀吉はかつての主君・織田信長安土城よりも巨大な城の造営に取り掛かり、かつて石山本願寺があった場所に大坂城を建てたのである。

大坂の地が持つ経済力に目を付けた秀吉

秀吉は以前から大坂は経済的にも地勢的にも自分の居城に相応しい場所と考え、天正11年(1583年)に大坂城の造営を始めた。
大坂城の造営は大々的に行われ、1日に約2万から3万人の職人や人夫が動員されたという。
こうして天正13年(1585年)に大坂城は完成した。

大坂城

秀吉造営の大坂城天守閣

関白・豊臣秀吉誕生

また秀吉は、自分が由緒もない成り上がり者というコンプレックスから脱却する為に、確かなステータスを切望していた。
その為、まずは足利義昭の養子になって征夷大将軍になろうと試みる。
しかし、義昭に断られてしまい、秀吉の思惑通りに事は進まず、失敗に終わった。

朝廷より官位と新たな姓を賜る

秀吉は出世の道を諦める事なかった。
今度は朝廷に歩み寄って、関白・太政大臣という官職を得る事に成功する。
関白とは事実上、天皇を除けば朝廷における最高位の官位であった。
同時に秀吉は、朝廷から「豊臣」という新しい姓を賜った。
こうして豊臣秀吉は、天下取りの為の確固たる地盤を築く事に成功したのだ。

正親町天皇像(京都・泉涌寺蔵)

正親町天皇
秀吉に「豊臣」の姓を授け太政大臣にも任じた
画像:正親町天皇像(京都・泉涌寺蔵)

聚楽第

関白となった秀吉は京都に聚楽第を造営した。
聚楽第は政庁でもあり、都での秀吉の住まいでもあった。
後陽成天皇、そしてポルトガルのインド副王ほか、国内外の要人をを迎え、迎賓館的な役割も果たした。
その後、秀吉は聚楽第を秀次に譲るが、文禄4年(1595年)、秀次が切腹を命じられたのと同時に、聚楽第も壊されてしまった
下の図は、聚楽第が存在していた頃に描かれたとされる絵画で、2階建ての御殿や軒先に金箔瓦が輝く様子などが分かる。

聚楽第図屏風

聚楽第図屏風(三井記念美術館)

秀吉の名前の移り変わり

秀吉は羽柴木下姓など幾つかの名前を持っている。
豊臣姓以前の変遷時期や幼名など、いくつか説があるか、その変遷を表にまとめる。
あまり聞きなれないが、秀吉は「藤原」姓も持っているのだ。

西暦・出来事名前
1573年 誕生日吉丸
1554年 信長に士官木下藤吉郎
1561年 おねと結婚
1573年 長浜城主羽柴秀吉
1585年 関白藤原秀吉
1586年 太政大臣豊臣秀吉
志津ヶ嶽月 秀吉(東京都国立国会図書館蔵)

志津ヶ嶽月 秀吉(東京都国立国会図書館蔵)


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