過疎と過密

昭和の過疎と過密

戦後の急成長を経た日本各地では、急速な人口移動が起こり、農村部と都市部は大きく様相が変わった。
過疎と過密の二極化現象が激動の昭和を象徴している。
昭和の人口流動の歴史をみてみる。

農村から都市へ

昭和30年代以前の人口分布をみると、3大都市圏の東京・大阪・名古屋には、全人口の約30%が居住するに過ぎなかった。
高度経済成長期に入り、第二次産業の人手不足が明らかになる中で、人々は3大都市圏を中心とした大都市へと移動していった。
集団就職の為、中学・高校を卒業したばかりの若者たちが上京を果たしたのである。

太平洋ベルト地帯には60%もの人口が集中

加えて、東北、北陸、九州といった各地から、多くの労働者が京浜・阪神など大都市の工業地帯へ出稼ぎに出ていった。
こうした「民族大移動」によって、昭和50年代には、3大都市圏に全人口の約半分、工業の中心である太平洋ベルト地帯には60%もの人口が集中した。

農村・離島・産炭地域で過疎化が深刻に

一方で、都市へ多くの人が流出した農村では、急激な人口減少や地域社会の衰退といった過疎が問題となっていった。
急速な高齢化や結婚難、教育・医療といった問題だけでなく、生活が維持できない地域も現れ、昭和40年(1965)から15年間に、全国で約600もの村が廃村となった。
とくに山間地である中国山地をはじめ、交通機関の不便な離島、主要産業である炭鉱の閉山が相次いだ北海道や九州の産炭地域でも、過疎は深刻な問題となった。

政府が対策に乗出すも、国土の約50%が過疎地に

政府は、昭和45年に「過疎地域対策緊急措置法」を規定、過疎地域への財政的な支援など、人口減少の歯止めとなる政策を実施した。
平成以降、過疎地域の市町村には、人口の6%前後が居住しているとされ、その面積は国土の約50%を占めている。

大都市の人口過密とドーナツ化現象

都市部で土地不足が発生

高度経済成長期には大都市への人口集中が進み、その結果、東京や大阪などの周辺では、大気汚染や水質汚濁といった公害やゴミ問題が発生した。
過密はまた、土地不足・価格の高騰を招き、住宅の不足という事態をも引き起こした。

昭和36年の大阪・香里団地

昭和36年の大阪・香里団地
日本住宅公団による大規模な集合住宅の開発が始まった

政府主導で「人々が住む場所」を開発

周辺地域への住宅建設が求められるなか、政府は昭和30年に日本住宅公団を設立し、都市周辺部での住宅供給に乗り出し、昭和49年まで計100万戸の住宅を建設した。
住宅不足のなか、人々は海外から「ウサギ小屋」と揶揄されたマイホームを求めて、公団の入居者募集の抽選に殺到した。
こうして、東京都下、埼玉、神奈川、千葉の周辺地域では、それまで農地や丘陵地であった土地が造成され、多摩ニュータウンに代表されるベッドタウンが造られた。

公団住宅の申し込み会場

昭和35年、公団住宅の申し込み会場に殺到する人々

都市部で人口が減少、周辺のみ増加

昭和50年代以降、地価が急激に高騰し始めた為に、住宅の価格は益々上昇していく。
都心部では、住宅を手放して、郊外へ引っ越す人々も多くみられた。
こうして、都心部の人口が減少する一方で周辺地域の人口が増加する、いわゆる「ドーナツ化現象」が起こり始めた。

昭和36年の家屋が密集する東京都墨田区

昭和36年の家屋が密集する東京都墨田区
写真:長野重一氏

通勤ラッシュが生まれる

そして、急速な人口増加に対応する為、周辺都市と都心とを結ぶ鉄道も徐々に整備された。
しかし、やがて輸送量は限界に達し、通勤時には、身動きが取れない程の混雑ぶりを引き起こし始める。
近年では、バブル崩壊の影響で土地の価格が標準化し、都心部でもマンション建設が増加した為、周辺への人口移動が減少し、都心へ人々が戻って来ている。


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