戦後の経済成長

戦後日本の経済成長

戦後の日本経済は、数々の転機を経験し、景気変動を繰り返しながら成長を遂げてきた。
復興期から始まり、安定成長期バブル経済、そして平成不況
「ジャパニーズミラクル」とも称された、戦後日本の経済復興の道筋を見てみる。

  1. 高度経済成長期には、10%を超える驚異的な実質経済成長率を記録
  2. 第1次石油危機の影響で急激なインフレが起こり、成長率はマイナスに転落
  3. バブル景気を迎えた日本経済は、その崩壊から長い不況の時代を迎える

戦後日本の経済成長

高度成長からマイナス成長へ

戦後の日本は、史上例をみない程の経済発展を遂げる事になったが、その歩みは、大きく次の様に分けられる。
戦後復興期(昭和20〜30年)、高度成長期(昭和30〜48年)、安定成長期(昭和48〜60年)、バブル形成から平成不況(昭和60〜)の4つに分けられる。

戦後復興と高度成長期

朝鮮戦争特需もあって、戦後復興を果たした後に迎えた高度経済成長期には、年10%を超える高い成長率を継続。
昭和40年代前半には、早くも米国に次ぐ世界第2位のGDP(国内総生産)を誇る経済大国へと成長した(現在では他国に移っている)。
この成長は、「投資が投資を呼ぶ」といわれたように、旺盛な民間の設備投資に牽引される形で起こったモノだった。

いざなぎ景気のデパートの売上金の山

戦後最長の「いざなぎ景気」に沸くデパートの売上金の山(昭和44年)

安定成長期(低成長時代)

しかし、昭和48年(1973)10月に起きた第1次石油危機を契機として、日本経済の高度成長時代は終わりを告げ、安定成長期(低成長時代)へ移行する事になる。
石油危機直後の昭和49年に、戦後はじめてマイナス成長になったほか、この時期の経済成長率は、平均5%へと低下した。

バブル崩壊と長い不況の時代へ

以後、バブル経済の時期(昭和60〜平成3)は、一時、年率6%に迫る成長を遂げたものの、バブル崩壊後に再び成長率は低迷し、平成10年(1998)には遂にマイナス1.9%という数字を記録してしまう。
これ以降、日本経済はマイナス成長が珍しくない時代を迎える事になるのであった。

時系列

戦後復興期(昭和20〜30)朝鮮戦争特需を機会に、国民所得が第二次世界大戦前の最高水準である昭和15年(1940)レベルに達し「もはや戦後ではない」といわれるほどの成果を上げた。
高度経済成長期(昭和30〜48) 日本経済が実質経済成長率で年平均10%前後という驚異的な成長を遂げた。『戦後日本の奇跡』とも称される。
神武景気(30〜32年)、岩戸景気(33〜36年)、オリンピック景気(37〜39年)、東京オリンピック開催(39年)、いざなぎ景気(40〜45年)、大阪万博開催(45年)、列島改造景気(46〜48年)
安定成長期(昭和48〜60) 石油危機によって、世界・日本経済が大打撃を受けた。これを契機に、日本は省エネ型・高付加価値型に転換し、エレクトロニクス産業や自動車産業が経済を主導していく。
第一次石油危機(48年)、新東京国際空港(成田国際空港)開港(53年)、第二次石油危機(54年)
バブル経済期(昭和60〜) 資産が土地や株式に集中し、バブル(泡)と呼ばれる実態経済を伴わない資産価値の上昇が起こった。平均株価が史上最高値を記録するなど、未曾有の好況でもあった。
プラザ合意(60年)、消費税3%導入(平成元年)
平成不況(平成4〜) バブル崩壊後、日本は長い不況の時代を迎える事となる。様々な政策が打ち出されるも、景気は低迷を続け、『失われた10年』などとも呼ばれる時代。
阪神淡路大震災(平成7年)

何が経済成長を支えたか

戦後のモノ不足が原動力

高度経済成長の大きな原動力となったのが、民間企業の活発な設備投資である。
当時は、企業数の増加などにより労働者が吸収された為に、完全失業率は1%台を推移していた。
同時に賃金が急上昇した為、国民の消費能力が増大し、「大衆消費社会」が到来した。
このような個人消費の拡大を背景として、家電などの耐久消費財メーカーは、生産を拡大させる事が出来たのだ。
それに応じて、これらの産業に原材料を供給する鉄鋼業や石油化学産業も、旺盛な設備投資を実施する事が出来たのである。

石油危機により成長が鈍化

しかし、昭和45年の短期的な不況期に続く第1次石油危機以降、民間の設備投資が陰りを見せ始めると同時に、企業数の増加も鈍くなった。
これらの傾向に伴い、日本の経済成長率も低下していった。
そこで石油危機以降の日本の産業は、原材料である石油の価格と、人件費の上昇への対応を迫られる事になる。

“減量経営”により自動車産業が成長

企業は危機を乗り越える為に、徹底的な経営合理化に踏み切る。
具体的には、人員削減や不採算部門の閉鎖などの方策が執られる事となった。
これらの「減量経営」と呼ばれるコスト削減策は、実際に労働生産性の向上をもたらした。
それに合わせて、どれだけ効率的に粗利を生み出せるかを表す“付加価値率”も上昇していった。
これらの「減量経営」にいち早く成功した自動車産業は、日本経済における、基幹産業としての地位を築いていった。

経済の発展と通産省の行政指導

戦後の日本経済の成長において、通商産業省(現・経済産業省)は、その時々の経済状況に応じた政策を示し、日本経済を指導してきた。
それと同時に、省と企業を結び付ける中間組織(業界団体)の存在が、その政策施行を円滑にしてきた事も、日本の産業界の特徴である。

通産省の政策

通産省の具体的な政策を見てみよう。
高度成長期のスタート時点では、重要産業育成策として、自動車部品工業などの振興を目的とした機械工業臨時措置法が、昭和32年に制定された。
また、その翌年には新しい基幹産業としての電子工業の育成を目指した電子工業臨時措置法が制定された。
安定成長期に入ってからは、不況対策として特定不況産業安定臨時措置法(昭和53年)や、産業構造転換円滑化臨時措置法(昭和62年)などが制定された。

昭和43年の3億円事件

昭和43年の3億円事件は、高度経済成長の世相を反映した事件だった


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