安定成長期

安定成長期(昭和48〜)

オイルショック(石油危機)によって、高度経済成長の時代が終焉を迎える。
低成長時代の到来で、日本経済は大きな変化を強いられる事になった。
日本経済は、急成長ではなく、安定的な発展を目指す。

高度経済成長の終焉と石油危機

中東戦争と石油危機

昭和48年(1973)10月、第4次中東戦争を契機として発生した第1次石油危機は、石油に大きく依存していた先進諸国に深刻な影響をもたらした。
高度経済成長期に、石炭から石油に主原料を転換していた日本も例外ではなく、他の先進諸国同様に大打撃を受けたのだ。

異常な物価高騰「狂乱物価」

この年、石油の価格は約4倍にも上昇する。
それに伴って、石油関連製品の価格も高騰し、「狂乱物価」ともいわれる状況に陥ってしまう。

昭和48年、節電の東京

昭和48年、節電の為にネオンが消えた東京・有楽町の夜

経済成長率が急減速

また実質経済成長率は、翌49年にマイナス0.8%と、戦後初のマイナス成長を記録。
さらに石油危機発生以前10年の経済成長率が平均9.3%だったのに対し、発生以後10年は、平均3.6%に落ち込んでいる。
この数字は、同じ期間の他の先進諸国(米国1.8%、西ドイツ1.6%)に対して高い値を示しているとはいえ、もはや日本経済は高度経済成長期並みの成長率を達成できなくなった。

安定的な発展を目指す

この頃には、国の政策にも高度経済成長期と異なる展開がみられる。
例えば、以前の所得倍増計画のような成長志向に対して、狂乱物価の反省と、それ以後も続く物価上昇を考慮して、物価の安定が政策に盛り込まれる様になったのだ。
こうして日本経済は、急成長ではなく、安定的な発展が求められる時代に入ったのである。

基幹産業の交代

オイルショック後、不況が続く

オイルショック以降、日本の産業界では、その後遺症による不況とインフレが共存するスタグフレーションのなかで、大型倒産が相次ぎ、企業の整理統合が進行した。
この状況を乗り越える為に企業の内側では、設備投資を控えて労働力・在庫・借入金などを削減する減量経営(リストラ)が実行された。

“大きなモノ”より“小さく高度なモノ”を作る

また、高度経済成長期に設備投資需要に依存して成長して来た製造業は、「構造的不況産業」と呼ばれはじめ、「投資の減少がさらなる投資の減少を呼ぶ」事態を引き起こし、不況が深刻化していった。
このような低成長期においては、「資源・エネルギー多消費型」である鉄鋼・石油化学工業などが衰退を迎え、代わりに「省資源・知識集約型」のハイテク産業や「高付価値型」の組み立て産業が、基幹産業として日本経済を主導していく事となった。

ハイテク産業インベーダーゲーム

ハイテク産業の一分野であるゲーム業界は、インベーダーゲームから発展した(昭和54)

「量より質」を目指す

ハイテク産業の例としては、ME(マイクロ・エレクトロニクス)革命の成功、なかでもNC工作機械の導入を上げる事が出来る。
これを他国に先駆けて導入出来た事が、日本が諸外国に対して優位に立てた要因の一つであった。
また組み立て産業の代表例である自動車産業では、トヨタ自動車の「カンバン方式」や、職場の一人一人が品質管理に積極的に取り組む「QC活動」のような日本企業独自の生産システムが、国際的に注目されるようになった。

トヨタ自動車の「カンバン方式」

在庫をできるだけ持たない仕組み

トヨタ自動車が採用した「カンバン方式」についてみてみる。
生産工程での在庫を限りなくゼロにして、生産性を向上させるために組み立てに必要な部品を必要な時に必要なだけ、時間を指定して納入させる仕組みをいう。
このようなシステムの背景には、優秀な協力工場が必要であり、最終組立企業から第1請負、第2請負・・と階層化がなされている。
このシステムが注目されたのは、日本の組み立て産業、とくにトヨタ自動車などの自動車産業が、石油危機後にも業績を伸ばしていたからだ。

カンバン方式

カンバン方式のトヨタ自動車工場(昭和40年代)

石油危機を難なく乗り越えた仕組み

カンバン方式に代表される、いわゆる「トヨタ・システム」は、日本の自動車産業が、資本や人員の不足という戦後の悪条件のなかで、国際水準の品質とコストを達成する為に、考え出されてモノであった。
これにより、外国に比べて高品質の製品を効率的に生産する事が可能となった。


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