バブル崩壊

バブル経済と平成不況

戦後、急速な復興を果たした日本であったが、昭和末期にはバブル神話の誕生と崩壊、そして「失われた10年」へ突入する。
出口の見えない長い「不況」の時代は、どうやって訪れる事になったのか?

バブルの形成と崩壊

「プラザ合意」により日本が円高不況に

昭和末期〜平成初頭に掛けて日本を席巻したのが、バブル経済と呼ばれる未曾有の好景気であった。
このバブル経済の引き金は、昭和60年(1985)にひかれた。
この年9月に開催されたG5(5カ国蔵相・中央銀行総裁会議)で、各国が協調してドル高を是正しようとする「プラザ合意」が成立する。
これを受け、当初1ドル242円が同年末には122円になるという急激に円高が進行した。
その事で輸出産業は大きな打撃を受け、日本経済は円高不況に陥る事になった。

国内だけで“金を回す”つもりが“回り過ぎ”る結果に

この円高不況や当時問題となっていた貿易摩擦に配慮する為に、政府は「内需拡大政策」として低金利政策を実行した。
昭和62年に日本経済が回復に向かったにも関わらず、この政策が継続された為、増大した資金需要は、商品やサービスではなく、土地や株式という資産に向けられた。
その為、一般物価水準が比較的落ち着いている中で、資産価値の急騰が起こっていった。
例えば、主要都市の地価は昭和60年以降急激に上昇し、平均株価も平成元年(1989)末までに、約3倍に膨れ上がる程だった。

土地の“価値”が上がり過ぎ、土地の買占めが発生

バブル経済期には「土地投機」が過熱し、「地上げ」が横行した。
土地投機とは、将来値上がりする事を見込んで土地を買う事である。
皆が「土地の価値が上がる」事を期待して、計画性なしに土地を欲しがる事で「町が壊れ」ていった。

土地投機

「土地投機」が過熱し、古い建物がポツンと残る結果に

買占められた“土地”が買われず“余る”

その後、政府はバブル抑制政策を打ち出していった。
先ず平成元年9月から同年末までの間に3回の公定歩合引き上げを行った。
続いて平成2年以降には、不動産向け融資に関する総量規制政策が実施される事になった。
「金余り※」と「土地投機」というバブル経済を形成した主要因に、制限が加えられたのである。
※金余り(この場合)とは、「土地を欲しい人」がいないのに「土地だけが余る」こと

バブル崩壊

こうした施策によって、平均株価は大幅に下落し、バブルは完全に崩壊する事となった。
それ以後も株価下落は止まらず、平成15年4月28日には平均株価が7608円を記録し、ピーク時の3万8915円から約1/5に落ち込んだ。

平成不況とその対策

“余った土地を欲しがる人”がいない

バブル経済期には、日本企業の多くは地価の上昇を見込んで不動産関連投資を拡大させていた。
これらの企業に対して金融機関は、こぞって不動産を担保として融資を急増させていた。
このためバブル崩壊後は、その多くが不良債権化するという事態が引き起こされたのである。

“土地に価値がない”事に気付かなかった銀行が破綻

その結果、莫大な不良債権を抱えた金融機関は経営危機に陥り、破綻する銀行が続出。
金融危機は深刻化していった。

>バブル崩壊で企業誘致が進まない東京臨海副都心地区

バブル崩壊で企業誘致が進まない東京臨海副都心地区(平成7年)

状況を重く見た政府は、金融秩序の維持のため、都市銀行に公的資金を投入した。
また、生き残りを図る銀行間で合併・統合が相次ぎ、4つのメガ金融グループが形成される事になった。

政府による「公共事業」の増大

平成不況期には、完全失業率や企業倒産数の上昇に示されるように、金融界だけでなく日本経済全体が苦境に陥った。
そこで景気浮揚策として、政府は公共事業を増大させる政策を打ち出した。

政府が直接“土地開発”を指揮する

例えば、平成2年に全国で行われた土木工事のうち、公共事業が占める割合は22.8%だった。
それがバブル崩壊後の平成7年には、32.8%に増加している。
これに伴い、建設業に従事する労働者数は、584万人から663万人へと増加している。
このような公共事業の拡大は、失業対策という側面を持つと同時に、縮小していた消費需要の拡大を狙ったモノであった。

失われた10年

バブル崩壊後の1990年代は、「失われた10年」と称される様に、日本経済は低迷を続けた。
この後、日本は経済・政治ともに、長い低迷の時代が続く事になる。


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