毛利元就

毛利元就

毛利元就

戦と外交を巧みに使い分ける

毛利元就は知将として知られる武将であり、生涯二百を超える戦を巧みな戦略と知略で勝ち抜いた。
元は安芸国の国人にすぎなかった元就が一代勢力を築けた背景には、戦を優位に進める戦術家としての素養だけではなく、政治家としての対外外交による戦略家としての素養を合わせ持っていたからである。
元就の時代の中国地方には尼子氏大内氏という2大大名の下に、元就のような国人勢力がひしめき合っていた。
元就は、国人と大名という2種の勢力に対して、立ち回る必要があったのだ。
まず、国人に対しては、相手が強大な勢力であれば婚姻関係を結ぶ事で勢力を広めていった。
逆に相手が弱小勢力であれば、武力を持って制圧し、家臣として取り立てる事で懐柔を謀る戦略である。
元就は子供が多く、中国地方全域に婚姻化権を用いる事で、自身の勢力を広げていく事が出来たのだ。
その中でも特に、次男の元春(もとはる)は吉川家の養子となり、三男の隆景(たかかげ)は小早川家の養子となった。
両家とも後の関ヶ原の戦いにも参加した有力武家であり、養家を継ぐことで重要拠点を押さえることに成功し、「毛利両川(もうりりょうせん)」として、後の毛利氏を大いに支えるのである。

家臣になった後に、内側から瓦解を狙う

一方で、武力では到底敵わない大名に対しては、敢えて自ら人質を指しだす事で、臣従の意思を示し、一旦服属して見せる事で、新たな台頭の機会を虎視眈々と伺う戦略をとったのだ。
そのため元就は、まず、大内氏に対して嫡男の隆元(たかもと)を人質に差し出したのである。
そして、事態が大きく動く機会が訪れた。
大内氏の重臣である「陶 晴賢(すえ はるかた)」がクーデターを起こしたのだ。
元就は当初、晴賢に協力する形で争いに参加した。
晴賢を一旦勝利に導く事で、晴賢に大内氏の実権を握らせたのだ。
その後、さらに、大内家家臣団の内紛を利用する事で、今度は晴賢を孤立させ、「厳島の戦い(いつくしまのたたかい)」で殲滅したのであった。
晴賢の死により、大内氏は内部分裂を起こしてしまい、続く「且山城の戦い(かつやまじょうのたたかい)」で大内氏は滅亡した。
もう一方の尼子氏も内紛が相次いでおり、既に弱体化しており、「月山富田城の戦い(がっさんとだじょうのたたかい)」で元就に攻められ滅亡したのであった。
元就のこれらの戦略は、その後の戦国大名たちの基本的な戦略として広く用いられていく事となる。



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