室町幕府(北朝)は、3代将軍足利義満によって南北朝を統一する事に成功した。
幕府は60年もかけて統一を果たしたものの、大名に成長した守護に足元を脅かされる事になる。
南北朝の動乱のなかで、守護権限の拡大が進行した。
所領紛争の際に、実力で相手方の稲を刈り取る行為を取り締まる権限、裁判の判決を執行する権限を獲得。
そして1352年には、「観応の半済令(かんのうのはんぜいれい)」という、年貢の半分を軍備調達の為に徴発する権利が認められた。
守護は公然と荘園の侵略を始めたほか、在地の国人を自らの支配下に置き、ますます強化拡大していった。
こうして一国の支配権を確立した室町時代の守護は、守護大名と呼ばれる。
2代目足利義詮(よしあきら)が将軍だった頃の室町幕府は、まだ力が弱く、基盤も不安定だった。
九州では後醍醐天皇の皇子・懐良親王(かねよししんのう)が幕府軍を悩ませていた。
中国地方では、有力な守護大名である山名氏や大内氏の態度が明らかになっていなかったのだ。
さらに、幕府内では重臣がクーデターを起こすなど、内紛にも悩まされていた。
1368年に義詮の跡を継いだ義満は、将軍の権威を高める為、まずは南朝との合一を図る。
1392年、南朝の後亀山天皇が、北朝の後小松天皇に、三種の神器を変換し、60年に及ぶ南北朝時代の終結に成功した。
また義満は、一人で数カ国の守護を兼ねる有力守護大名の勢力削減に乗り出した。
1390年に美濃はじめ3カ国の守護である土岐氏、翌年には11カ国を支配していた山名氏、1399年には6カ国の守護だった大内氏を攻撃して勢力を削減、ようやく政権は安定した。
特に重要な役職である管領、侍所所司(長官)は、有力守護の持ち回りだった。
関東8カ国と伊豆・甲斐を統括する為、設置された