上野戦争

上野戦争

上野戦争は、慶応4年5月15日(1868年7月4日)は、戊辰戦争の戦闘の1つ。
江戸上野(東京都台東区)において彰義隊(しょうぎたい)ら旧幕府軍と薩摩藩、長州藩を中心とする新政府軍の間で行われた戦いである。
1868年5月15日、江戸城無血開城に反対する幕臣らは彰義隊を結成し、上野の寛永寺に立て籠ったが、大村益次郎が率いる新政府軍によって撃破された。

上野戦争の絵画

上野戦争の絵画

無血開城を不服とする彰義隊

天野八郎ら率いる彰義隊

1868年3月14日、旧幕臣の勝海舟は、江戸に迫る新政府軍参謀・西郷隆盛と会談し、江戸城は無血開城される事に決まる。
しかし、前将軍・徳川慶喜を警護するという名目で旧幕臣らが結成していた彰義隊は、無血開城に不満を持ち、上野寛永寺に集結し、立て籠もった。
5月1日、新政府軍の大村益次郎は江戸の警護は自分たちが行うと宣言し、上野総攻撃の計画を立てる。
5月15日早朝(午前7時頃)、新政府軍が上野の山を取り囲み、午前8時ごろに戦闘が開始された。

上野戦争の絵画

上野戦争の絵画

一日で勝敗が決した

新政府軍は新式のスナイドル銃の操作に困惑するなどの不手際もあり、当初は新政府軍と互角に戦っていた彰義隊であった。
しかし、佐賀藩のアームストロング砲・四斤山砲による砲撃や薩摩藩兵の猛攻により、正午過ぎになると次第に劣勢となる。
西郷隆盛率いる薩摩藩兵が正面の黒門が突破すると、彰義隊は潰走する。
夕方には上野の山は火に包まれ、わずか一日で勝敗が決した。
彰義隊は士気こそ高かったが、数・装備ともに圧倒的に新政府軍が優位であり、彰義隊に勝ち目はなかった。

使用された佐賀藩のアームストロング砲

使用された佐賀藩のアームストロング砲

黒門での激戦

寛永寺の正門にあたる黒門は最大の激戦地となった。
黒門の強行突破は大村益次郎の作戦であったが、狭小な地域のため多くの被害が予想された。
この作戦を知った西郷隆盛は激怒したという。

黒門での激戦

黒門での激戦

戦争後の経過

この戦いの後、新政府軍は江戸以西を掌握する。
敗走した彰義隊は榎本武揚の艦隊に乗船、他の隊士らは会津へと落ち延びている。

火災によって多くの伽藍が消失した寛永寺

戦闘の際生じた火災で、寛永寺は根本中堂など主要な伽藍を焼失、壊滅的な打撃を受けた。
寛永寺本堂はこの戦いにおける主な主戦場となった為、五重塔などを除き、ほとんどの伽藍が焼失してしまった。
戦闘が行われた黒門は荒川区の円通寺に移築されており、弾痕の残った柱などが保存されている。

悲惨な様子となった上野戦跡

悲惨な様子となった上野戦跡


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