廃藩置県と地租改正

廃藩置県と地租改正

日本が列強に追いつく為には、国力を一つにまとめる強力な中央集権国家の樹立が不可欠であった。
明治新政府は旧体制を打破する為、反発覚悟の大改革を断行する。
新政府による廃藩置県と地租改正は、各地諸藩が「痛み」を伴う構造改革であった。

版籍奉還と廃藩置県

版籍奉還

明治政府発足後も、依然として諸藩の領地や領民は、旧来の藩主が治めていた。
そこで、1869年1月、政府の大久保利通(薩摩藩)、木戸孝允(長州藩)らは、薩摩、長州、土佐、肥前の各藩主を説得し、領地と領民を政府に返上させた。
これを版籍奉還という。
諸藩もこれに倣い、6月には全国の土地と人民が政府の支配下に置かれる形式が整えられた。

廃藩置県は、実質的に武力制圧だった

しかし、旧藩主は知藩事に任命され、その後も藩政を執った為、実質的には維新前・幕藩体制時と変わらなかった。
強力な中央集権国家建設には、藩の一挙全廃が不可欠と考えた明治政府は、1871年7月、天皇の名のもとに廃藩置県を断行した。
鹿児島から西郷隆盛を招いて薩長土3藩約10000人からなる御親兵を組織し、諸藩の反攻に備えた。

諸藩も既に財政難であった

だが、予想に反して抵抗は少なく、廃藩はあっさりと受け入れられた。
そこには、多くの藩が極端な財政難に苦しんでおり、既に藩の運営が困難になっていた事情があった。
旧体制の維持に疲弊し切っていたのは、旧幕府だけではなく、諸藩も同じであったのだ。

諸藩の状況を受継ぐ力は新政府にもなかった

こうして、廃藩置県に成功したものの、政府の財政も火の車であった。
諸藩から引き継いだ債務は、当時の歳入の2倍にも上ったという。

地租改正で国家財政を支える

明治政府が近代化政策を次々に実行していくには、何よりもそれを支える財源が必要であった。
政府は、田畑勝手作りを認め、田畑永代売買の禁を解くなどの措置をとり、1873年に地租改正条例を公布。
田畑勝手作許可とは田畑において木綿・煙草・菜種等の商品作物の栽培を許可した事。
農民による田畑の売買の許可を指す。
これは、民間への資本主義の導入(自由経済の推進)を意味している。
以後、1870年代を通じて、改正事業が実行された。
従来の年貢に比べて東日本では増税、西日本では減税の傾向があり、藩閥政治の影響だったといわれている。

農民の声を受け入れ、徐々に制度が確立

地租改正の内容は、土地(地券)所有者に、金納・定額で地価の3%にあたる地租を納入させるというモノ。
これによって政府は、安定した財源基盤と近代的な土地所有権を確立する事に成功した。
1876年、茨城県や三重県などで地租改正反対一揆が激化すると、翌年、地租は地価の3%から2.5%に減額され、農民の負担が大幅に軽減された。
その後、明治新政府による国家運営は安泰に進むかと思えたが、直後に西南戦争が発生してしまう。

維新後の各地の一揆・騒乱

わっぱ騒動
1874年、山形県庄内地方の農民が、過納分の年貢返還などを求めて暴動を起こした。
真壁騒動
1876年、茨城県真壁郡(現在の桜川市周辺)、那珂郡一帯の農民が地租の軽減を求めて蜂起。
伊勢騒動
1876年、三重県飯野郡(現在の松阪市)の農民が地租の軽減を求めて蜂起。
県下から愛知・岐阜・奈良各県に広がる大一揆となった。
西南戦争
旧薩摩藩であった鹿児島県はことごとく政府の政策を無視している。
西南戦争後の1879年まで地租改正も行われなかった。

明治初期の身分区別と人口

明治維新によって、身分制度も一新され、主に士族華族平民に分けられた。
士族は旧藩士や幕臣出身者らであり、華族は旧藩主や公家の出身者、平民は農民は町民などだ。
身分別の人口だが、士族が全体の5.5%(183.6万人)、華族・僧が全体の0.9%(29.6万人)、平民が93.6%(3100万人)であった。


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