大政奉還によって倒幕は失敗したかにみえたが、巻き返しを謀る倒幕派は起死回生の策略を編み出し、その機会を窺っていた。
そして倒幕派の工作によって、将軍・徳川慶喜が排斥される。
倒幕派のクーデター「王政復古の大号令」によって明治新政府が樹立される事となる。
大政奉還によって政治的に追い詰められたのは、倒幕派の方だった。
倒幕派は、列藩会議構想が実現する前に徳川氏を排斥した新政権を樹立し、旧幕府側を挑発する作戦に出る。
1867年12月9日、京都御所の九門を諸藩兵が固めるなか、御所内において王政復古の大号令が発せられた。
これにより、摂政、関白、幕府などの制度は廃止され、新たに総裁、議定、参与の三職が設けられた。
新政権創出を目論む倒幕派のクーデターだった。
この日の夜には、御所内の小御所において初の三職会議が開催された。
最大の議題は徳川慶喜の「辞官納地」(官位辞退と領地返上)であった。
前土佐藩主山内容堂らは反対したものの、慶喜排斥を強硬に主張する岩倉具視らの前になす術はなかった。
「辞官納地」の勅命を伝えられた慶喜は、幕臣の暴発により朝敵となる事を恐れ、大坂城へ退去する。
入れ代わるように長州藩兵が入京し、京都は薩長の軍事支配化に置かれた。
大坂城の慶喜の下には、5000もの旧幕府兵が次々と詰め掛け、薩長討伐の気勢が高まった。
これに会津藩兵3000、桑名藩兵1500などを加えた旧幕府軍約1万5000は京都に向け進発。
対する薩長藩兵は4500と、その3/1にも満たなかった。
両軍は、京都南部の鳥羽・伏見で激突、戊辰戦争が始まる事となった。
維新の功労者である薩長土肥4藩の実力者が政府の実権を掌握した事から、「藩閥政府」と呼ばれた。
明治政府では1867年12月から、総裁、議定、参与の三職の下に、神祇、内国、外国、陸海軍、会計、刑法、制度の7科が置かれた。
総裁(有栖川宮熾仁親王が就任)は万機を統轄し、天皇を補佐し、副総裁(三条実美や岩倉具視らが就任)が総裁を補佐していた。
議定(皇族や公家、藩主らが就任)は事務方を総裁し、政策を議決。
参与(西郷や大久保ら20人が就任)は政策の評議と議決に参与していた。
1868年閏4月、律令制の役職を復活させた太政官制を採用。
1871年7月に三院制が確立され、内閣制度が発足するまで基本官制として続いた。
三院制では天皇を頂点に太政官、その下に正院(行政)・左院(立法)・右院(調整)を配置していた。
正院の下に太政大臣・左大臣・右大臣を配し、かつての律令制度に倣ったモノであった。
太政大臣の下に参議が配されその下に、さらに8つの省が置かれた。
8つの省は、神祇省(天皇の側近事務、仏事)・外務省(外交)・大蔵省(財政、租税の管理)・兵部省(軍政、軍令)・文部省(学術、教育)・工部省(殖産興業の推進)・司法(訴訴、刑罰)・宮内省(宮中の庶務)であった。