ヤマトタケル(生年不詳-景行天皇43年)は、記紀(古事記・日本書紀)や日本各地の伝承に伝わる古代日本(大和)の皇族(王族)である。
『日本書紀』では主に「日本武尊(やまとたけるのみこと)」、『古事記』では主に「倭建命(やまとたけるのみこと)」と表記される。
現在では、漢字表記の場合に一般には「日本武尊」の用字が通用される。
第12代景行天皇の第二皇子として生まれた小碓尊(おうすのみこと:ヤマトタケル)は、幼い頃から常人離れした強い力を持っていた(とされる)。
まだ、青年のうちから父の景行天皇に九州の熊襲(くまそ)討伐を命じられる。
熊襲討伐の為、熊襲の頭領「クマソタケル」兄弟の居館にたどり着いた小碓尊は、女物の衣装に身を包んで女装し、宴の席に潜り込む。
そして兄弟のもとまで忍び寄ると、隠し持っていた剣を抜き放ち、たった一人でこの兄弟を討つ事に成功した。
この時、死の間際のクマソタケルはその知恵と勇気を讃えて「タケル」の名を送った事から、小碓尊は以後、ヤマトタケルと呼ばれるようになった。
『古事記』によれば、ヤマトタケルは熊襲討伐の前に実の兄を殺害している。
父の寵妃を奪った兄大碓命に対する父の命令の解釈の違いから、小碓命は兄を捕まえ押し潰し、手足をもいで、薦に包み投げ捨て殺害したという。
この記述は『日本書紀』には見られないが、ヤマトタケルが父から恐れられていた事は間違いないようだ。
見事に任を果たして帰京したヤマトタケルだが、その強大な力を景行天皇は脅威に感じていた。
そして、ヤマトタケルは帰るなり休む間もなく、東国征伐に出発するよう命じられてしまう。
ヤマトタケルは東征前に伊勢の神宮に立ち寄り、叔母のヤマトヒメに出発の挨拶をする。
するとヤマトヒメはヤマトタケルにお守りとして、三種の神器の一つ「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)」と、一つの小さな袋を手渡した。
こうして東国に出向いたヤマトタケルは、相模国(神奈川県)で土地の国造に騙され野原で火攻めにあってしまう。
このとき叔母のくれた小袋を開けると、そこに火打石が入っていた。
ヤマトタケルはこれで迎え火をたき、周囲の草を剣で薙切って窮地を脱する。
これ以後、神剣は「草薙の剣」と呼ばれる様になり、焼け野原は焼津という地名になったと伝えられる。
その後、ヤマトタケルは東国の蝦夷たちを次々に服従させ、また山や河の荒ぶる神をも平定する。
この頃、平定した東国を眺めながらヤマトタケルは、都に残した妻・オトタチバナを想い「わが妻よ」と三度嘆いたと云われる。
そこから東国をアヅマ(吾妻)と呼ぶようになったとされる。
その後、ヤマトタケルは尾張(愛知県)に入った。
その地で新たな妻・ミヤズヒメを娶ったヤマトタケルは、草薙の剣を妻に預ける。
そのまま、伊吹山(岐阜・滋賀県境)の神を素手で討ち取ろうと、再び出発する。
素手で伊吹の神と対決しに行ったヤマトタケルの前に、白い大猪が現れる。
その大猪こそがヤマトタケルが討ち取ろうとした神であったが、ヤマトタケルは神に気付かず素通りしてしまう。
そして、神は大氷雨を降らし、ヤマトタケルは失神し敗北する。
辛うじて一命は取り留めたヤマトタケルであったが、既に体は弱り、己の死期を悟っていた。
様々な苦難を乗り越えながら東国平定を進めたヤマトタケルだったが、都に帰る事無く、最期を迎えた。
その魂は白鳥となって都に戻ったと伝えられ、ヤマトタケルの御陵は白鳥陵と呼ばれている。
勇知を兼ね備えた日本神話屈指の英雄でありながら、父に避けられ、悲運に倒れた悲劇の英雄として、ヤマトタケルは日本人によって言い伝えられている。
ヤマトタケルが東国征伐に用いた草薙の剣は、尾張(愛知県)に留め置かれたとされ、その剣を祀る為に創建されたのが熱田神宮だ。
同社では草薙の剣を熱田大神と呼び、アマテラスと同一視されている。