ヤマトタケル(生年不詳-景行天皇43年)は、「記紀(古事記・日本書紀)」や日本各地の伝承に伝わる古代日本(大和)の皇族(王族)である。
『日本書紀』では主に「日本武尊(やまとたけるのみこと)」、『古事記』では主に「倭建命(やまとたけるのみこと)」と表記される。
現在では、漢字表記の場合に一般には「日本武尊」の用字が通用される。
「タケル」とは、勇猛な神や人に与えられる名前で、本名ではない。
『古事記』によれば、ヤマトタケルは、父である第12代・景行天皇と、7代・孝霊天皇の孫にあたるイナビノオオイラツメ(伊那毘能大郎女)との間に生まれた五皇子のうち、3番目の皇子であり、名を「ヲウス(オウス:小碓)」、またの名をヤマトオグナ(倭男具那)といった。
『記紀』の記述から、天皇と同等の扱いを受けていた痕跡が見られ、また『常陸国風土記』では「倭武天皇」という呼称で何度も登場する。
そのため、ヤマトタケルは元々天皇であったと見る説もあるが、最後に白鳥となって天に翔けてゆく姿が描かれていることから、天皇というよりも、後に続く天皇の始祖神的存在として崇められていたと見ることもできる。
『古事記』と『日本書紀』その記述の違い『古事記』で描かれる兄殺しや、ヤマトタケルを恐れた父との確執は『日本書紀』には見られず、過剰な暴力性もうかがえない。
古事記 | 日本書紀 | |
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系譜 | 景行天皇の第三皇子 | 景行天皇の第二皇子 |
同母兄弟 | 櫛角別王、大碓命(兄)、倭根子命、神櫛王(弟) | 大碓皇子(双子の兄) |
兄との関係 | 朝夕の食事に参加しなくなった兄を、父から諭すように命じられると殺害してしまう | 兄が父の妻となる女性を奪った話はあるが、兄殺しの話は書かれていない |
西征 | 兄を殺害したため父に恐れられ、九州の熊會討伐を命じられる。遠征前に伊勢へ赴き、叔母のヤマトヒメから女性の衣装を授けられる | 父が平定した九州で再び反乱が起きると、16歳のヲウスを討伐に遣わす。ヤマトヒメに会いに行く話はない |
熊會征伐 | クマソタケル兄弟が宴会を行う屋形に女装して潜入。2人を殺害する | 女装して宴会中のカワカミタケルを殺害する |
出雲征伐 | イズモタケルを、騙し討ちにして殺害する | 出雲には遠征せず |
東征 | 西征後すぐに命じられる | 兄が断ったため再度命じられた |
火攻め | 相模国造が火を放つ | 賊が火を放つ |
神の姿 | 白いイノシシ | 大蛇 |
白鳥伝説 | 死後、能煩野で白鳥となり河内国志幾へ。その後、天に翔る | 死後、能嚢野から大和琴弾原、河内古市へ飛来。その後、天へ |
『古事記』『日本書紀』において第12代・景行天皇の時代は、大和(今の奈良県)を中心として天皇家が東西の従わない者たちを平定し、国土を統一した時代として描かれている。その国土平定の立役者がヤマトタケルだった。
景行天皇には80人の皇子・皇女がいたと伝えるが、そのうち、ヤマトタケルと、腹違いの兄弟であるワカタラシヒコ(若帯日子)と、イオキノイリビコ(五百木之入日子)の3人の皇子に「太子」の名を負わせた(皇位を継ぐ者とした)と記している。
この中で実際に皇位を継いだのはワカタラシヒコ(13代・成務天皇)であった。
景行天皇はある時、ヲウス(ヤマトタケルの実名)の兄・大碓命(オオウス:父の寵妃を奪ったともされる)が朝夕の食事に顔を出さないことを問題視し、ヲウスに、「ネギ教えさとせ(お前からねんごろに教え諭してきなさい)」と命じる。
しかし、しばらく経っても兄は食事の席に現れないので、天皇は重ねてヲウスに尋ねたところ、ヲウスは、父の言いつけ通りにねんごろに教え諭したと言う。
どのように教え諭したのかを聞くと、ヲウスは「厠で兄を待ち伏せ、手足を掴んでもぎ取り、薦(むしろ)に包んで投げ棄てた」と言った。
ヲウスにとっては、父の命令の言葉を受けて実行に移したに過ぎないのだが、父にとっては思いもよらない誤解をされてしまったことになる。
この残忍な兄殺しの描写は、『日本書紀』には見られない。
『古事記』と『日本書紀』との、父・景行天皇とヤマトタケルとの関係性や、ヤマトタケルの人物像は、このエピソードにより大きく異なることになる。
『古事記』の場合、過剰に溢れ出てしまうヲウスの暴力性に接し、父・景行は我が子の凶暴性に恐れを抱き、この後にヲウスを西方の征伐、東方の征伐へと派遣する。
王権側にとって、この過剰な暴力性は、ヤマト政権内部に留めておくのは危険であった。が、外部に向ければ有効となる、と考えたのだろうか。
『古事記』の場合は、兄殺しからクマソタケルの討伐へと話が進んで以降は、景行天皇条の終わりに至るまで、そのほとんどがヤマトタケルの話に終始する。
東征記事の後にはヤマトタケルの系譜を詳しく記しているというのも、異例である。
『古事記』の景行天皇条は、景行天皇の記(系譜と少しの物語)と、ヤマトタケルの記(多くの物語と系譜)とが重なり合うような形で成り立っているのである。
『古事記』に対し、兄殺しを描かない『日本書紀』では、展開がかなり異なる。
ヤマトタケルは、兄とは双子で関係良好、父から深く信頼され、自ら志願して活躍する将軍として描かれる。
『日本書紀』は編年体で書かれているが、それによれば、景行天皇12年7月に熊曾が朝廷に背き、そのため8月に、天皇は自ら熊曾征伐に出向いており、7年後の同19年9月に帰還している。
その後、景行天皇27年8月に再び熊曾が背いたために、同年10月に今度はヤマトタケルを熊曾討伐に向かわせる。
このときヤマトタケルは16歳であったと記す。
景行天皇40年になると今度は東国が叛乱する。
ヤマトタケルは父・景行の期待を背負って東国平定に向かい、その任を果たすが、大和に帰り着くことなく命を落とす。そして、この年は景行天皇43年であったと記す。
東征説話は3年におよんでいるのだが、その間の年月日を記す記述がなく、編年体の『日本書紀』の中にあっては異例の書きぶりとなっている。
父・景行天皇は、ヲウスの凶暴性を恐れたのか、朝廷に従わない西方(南九州の地)の勇猛なクマソタケル(熊曾建)兄弟の討伐に向かわせる。
クマソのような勇猛な反乱者を討ち取るのは、同様の性情と力を持つヲウスこそが相応しいという判断もあったのかも知れない。
まだ青年であったが遠征に向かうことになったヲウスは、まず、西へ向かうに当たって叔母のヤマトヒメノミコト(倭比売命)のもとに立ち寄り、その衣装を頂戴する。
ヤマトヒメはアマテラスに仕える巫女であるため、ヲウスに授けた衣装には霊力が宿っていたと考えられる。
ヲウスは幼い頃から常人離れした強い力を持っていたとされるが、さらにそこに霊力が加わった。
熊襲の頭領「クマソタケル」兄弟の居館にたどり着いたヲウスは、熊曾に赴くと懐には剣を忍ばせ、ヤマトヒメから授かった女物の衣装に身を包んで女装し、宴の席に潜り込む。
クマソタケル兄弟は、美しい姿のヲウスに油断し側に呼んでしまう。そして、ヲウスは無防備な2人を討ち取ることに成功する。
兄のクマソタケルは剣を胸から刺し通して殺し、弟のクマソタケルは剣を尻から刺し通して殺害する。
弟のタケルを殺害する際に、名を問われたヲウスは自らをヤマトオグナと名のる(オグナは年少の男子の意)。
クマソタケルは、「西の国には自分たち兄弟以外に強い者はいなかったが、大和には我らよりも強い男がいることが分かった。自分はタケルの名を献上しよう。これより後はヤマトタケルノミコと名のるが良い」と言って、その知恵と勇気を讃えて、ヤマトタケル(「日本の勇者」の意)の名を授けた。
ヲウスあるいはヤマトオグナの物語は、これより後、ヤマトタケルの名で展開することになる。
『日本書紀』にはイズモタケル(出雲建)に関する記述はなく、主に『古事記』に伝わる説話である。
クマソタケルを征伐したヤマトタケルは、大和への帰還の際に、山の神・河の神らを服属させ、出雲(今の島根県東部)に立ち寄り、そこにいるイズモタケルを殺そうとする。
確実にイズモタケルを討つ為にまずはイズモタケルと親交を結んで友となった。が、 もちろんこれは計略であった。
その裏でヤマトタケルは、密かに偽の大刀(木刀)を作っていた。
そして、ヤマトタケルはイズモタケルに勝負を申し入れ、お互いの剣を交換して戦おうと進言。
これを受け入れたイズモタケルは、まんまとその偽の大刀(木刀)を持って勝負に臨んでしまう。
そしてヤマトタケルはイズモタケルが持っていた真剣を手にして戦い、イズモタケルを討ち取られてしまった。
クマソタケルには女装して相手を油断させて近づき、イズモタケルには偽の友人関係を結んで油断させるというように、いずれも相手を騙し討ちにしている。
これはヤマトタケルの残虐性の表れと取る向きもあり、知恵を用いて相手を斃すのは古代の英雄の特質であるとする見方もある。
日本史上において、ヤマトタケルがやったような騙し討ちの戦術は幾度となく繰り返し使われることとなるが、彼らはヤマトタケルに学んでやったのかも知れない。
イズモタケルを斃した後に「やつめさすイズモタケルが佩ける大刀つづら多纏きさみなしにあはれ」という歌を歌っており、ここにヤマトタケルの心情がはじめて示されているようだ。
しかし、この歌の解釈については見解が分かれており、明らかではない。
相手を打ち負かして勝ち誇っている(「あはれ」は嘲笑の意)、斃した相手への同情を示している(「あはれ」は隣憫の意)、イズモタケルを討った刀剣を賛美している(「あはれ」は賛美の意)等の説がある。
完全な解釈がなされれば、ヤマトタケルの人物像を考える鍵ともなる歌である。
『古事記』では、西征を終えて帰京したヤマトタケルに対し、父・景行天皇は、今度は「東方の荒ぶる神と従わない者どもを平定するように」と命令、タケルは帰るなり休む間もなく、東国征伐に出発するはめになる。
この時に父・景行がどのような心境であったのか、特に記述されてはいない。が、一般的には景行天皇はヤマトタケルの力に脅威に感じていた、などとも解釈される。
『日本書紀』では東征は兄のオオウス(殺害されていない)が命じられたが、逃げ出してしまったという。その為、ヤマトタケルが東征を命じられる。つまり、『日本書紀』では父からはタケルに対しネガティブな心象はなかったようだ。
これまでヤマトタケルは心の内が示すことはなかったが、ここで心情を吐露している。
東征に向かうにあたって伊勢大御神の宮で奉仕している叔母のヤマトヒメの元に立ち寄り、「どうしてか分からないが、父は私が死ねば良いと思っているのだ」と言って嘆いている。
父がヤマトタケルの凶暴性に恐れを抱いたことが西征・東征へと派遣するきっかけであったとは思われるが、その死までも望んでいたかどうかは分からない。
西征とは異なり、東征に際しては吉備臣等の祖にあたる人物を副将として添え、平定成功の象徴ともなる矛を授けている。
ヤマトタケルの力を認め、東征を無事に果たすことを望んでいたともいえる。
『古事記』の物語は、兄殺しの場面も含めて、父・景行の言葉を曲解してしまうことで滅びへと向かうヤマトタケルという描き方がなされている面がある。
今回は父は比較的ちゃんと準備して東征に送り出してくれたわけであるが、「父は私が死ねばいいと思っている」という悲観的な取り方をしてしまったのだ。
『日本書紀』では、兄殺しが描かれていないこともあり、父・景行がヤマトタケルの荒々しさを恐れるという描写がない。
ヤマトタケルをむしろ信頼・尊重し、「この天下はお前の天下だ、姿形は人だが中身は神である」とまで言うように最大限の賛辞を述べて東征へと送り出す。
父・景行に死を望まれていると認識するヤマトタケルだが、詔を忠実に実行するべく、東征へと出かけて行く。
嘆きつつも任を果たそうとするヤマトタケルに対し、ヤマトヒメはお守りとして、三種の神器の一つ「草薙剣(あめのむらくものつるぎ)」と一つの小さな袋(嚢:のう)を渡してヤマトタケルを送り出した。
ヤマトタケルはまず尾張国(愛知県)に行き、尾張国造の祖・ミヤズヒメ(美夜受比売)と出逢い、東征が終わり帰ってきた時に結婚することを約束して東へと向かう。(諸説あり)
こうして東国に出向いたヤマトタケルは、相模国(神奈川県)で土地の国造に騙され野原で火攻めにあってしまう。
このとき叔母のくれた小袋を開けると、そこに火打石が入っていた。これで迎え火をたき敵を滅ぼす。
さらに周囲の草を剣で薙切って窮地を脱する。
これ以後、神剣は「草薙の剣」と呼ばれる様になり、焼け野原は焼津という地名になったと伝えられる。
浦賀水道付近、走水海(はしりみずうみ:東京湾)を渡る際には海峡の神の妨害にあって難渋する。
同行していた妻のオトタチバナヒメ(弟橘比売)が身を犠牲にして荒れる海に投じ(海神に自らを捧げ)ることで神を鎮め、無事に渡ることができた。(諸説あり)
その後、さらに東(千葉県・茨城県)に進んで蝦夷たちを次々に服従させたヤマトタケルは、また山や河の荒ぶる神をも平定する。
帰還する時に、足柄山(神奈川県と静岡県の県境)に登って、平定した東国を眺めながらヤマトタケルは、亡き妻・オトタチバナヒメを想い「アヅマハヤ(我が妻よ、ああ)」と三度嘆いたと云われる。
そこから東国をアヅマ(吾妻)と呼ぶようになったとされる。
その後、ヤマトタケルは、甲斐(山梨県)の酒折宮で東征を振り返る歌をうたい、科野(しなの:長野県)の坂の神を平定して東征を終え、尾張(愛知県)に入り、その地で、事前に約束していた国造の娘・ミヤズヒメと結婚した。
ミヤズヒメと結婚したヤマトタケルは、その後、草薙剣をヒメの元に預け、伊吹山(滋賀県と岐阜県との県境にある山)の神を侮り「素手で討ち取ろう」と出かける。
東征を終えても山の神を討ち取ろうとするのは、父・景行の命令ではなく、自身の意思だったと思われる。
素手で伊吹の神と対決しに行くと、ヤマトタケルはそこで白い大猪と出遭うが「この猪は神の使いだ。今は殺さないが、帰る時に殺そう」と言う。
しかし実は、その大猪(『日本書紀』では猪ではなく大蛇)こそがヤマトタケルが討ち取ろうとした神であった。ヤマトタケルは神に気付かず素通りしてしまう。
ヤマトタケルは誤認をして神を軽んじた発言をしてしまい、そのために神に打ち惑わされることになる。
そして、神は大氷雨(雹)を降らし、ヤマトタケルは失神し敗北する。
辛うじて一命は取り留めたヤマトタケルであったが、既に体は弱り、己の死期を悟っていた。
様々な苦難を乗り越えながら東国平定を進めたヤマトタケルだったが、最期は自身の力に溺れ、神を侮り、勝者ではなく敗者になってしまった。
朦朧としながら清水の出る場所で休息して、なんとか正気を取り戻し、当芸野(岐阜県養老町)まで辿り着いたが、体は激しく衰弱していた。
杖をつかなければ歩けないほどの状態で、息絶え絶えに鈴鹿の手前の能褒野(三重県亀山市田村町)に到着するが、もはや力は残っていなかった。
そして、都に帰ることなく、最期を迎える。
なぜ、大和への帰還を目前にして死を迎えることとなったのか。その理由については、いくつかあげられる。
アマテラスの霊威を持つ草薙剣を手放したこと、神の正体を見抜けなかったことなど、さまざまな要素が絡んでいたとされる。
東征を終えてなお、猛々しさを納めることなく力を振るい続けるヤマトタケルは、もはや朝廷にとっては危険な存在でしかなかった。
神に打ち惑わされて病に罹ったヤマトタケルは、彷徨の末に伊勢の地で、故郷の大和を、そしてミヤズヒメのいる尾張を思う歌を詠んだ後に死を迎える。
とくに大和を忍んで歌った「やまとは国のまほろば たたなづく青垣 山籠れる倭し麗し」は有名である。
しかし、『日本書紀』ではこの歌を含む「国しのび歌」は、景行天皇が九州・熊會の地を平定に出向いた時に詠んだことになっており、ヤマトタケルは大和を忍ぶ歌を歌うことはなく、父・景行の使命を果たせずに斃れることへの無念の言葉を発して果てる。
『古事記』ではその後、大和から駆けつけた后たちと御子たちとが陵墓を造って弔うが、ヤマトタケルの亡骸は大きな白鳥に姿を変えて飛び立ってしまう。
その後、白鳥は河内(大阪)まで飛び、その後は天へと翔けて行った、もしくは、魂となって都に帰ったともされる。(諸説あり)(ヤマトタケルの御陵は白鳥陵と呼ばれている)
その白鳥を追いながら后と御子たちが詠んだ歌は、後々の天皇が崩御した際の大葬の時に歌うことになったと伝える。
12代・景行天皇の次には、ヤマトタケルの異母弟であるワカタラシヒコが即位して13代・成務天皇となり、その次にはヤマトタケルの子、タラシナカツヒコ(帯中日子)が14代・仲哀天皇として即位した。
仲哀天皇以降は、15代・応神天皇、16代・仁徳天皇と続いていくわけであり、ヤマトタケルは、仲哀・応神・仁徳と続く新しい王朝の始祖神的存在として位置づけられることになった。
ヤマトタケルの子である14代仲哀天皇の妻が神功皇后、両者は義理の父娘関係であり、時系列的には2人の物語はそのまま繋がっている。
14〜16代の3人の天皇も神話的な要素の強い天皇となっており、天皇の歴史が信憑性を持つようになってくるのは19代・允恭天皇からである。
しかし、ヤマトタケルと允恭天皇が本当に血縁関係に在ったかは定かではなく、26代・継体天皇が即位した際、それまでの天皇と系譜が断たれてしまったという説もある。
「記紀」に記される系譜が正確なものであったなら、現在まで続く皇室もヤマトタケルの子孫となるが、途中で系譜が途切れてしまっていたなら、ヤマトタケルの子孫がどうなったかはわからない。
勇知を兼ね備えた日本神話屈指の英雄でありながら、父に避けられ、悲運に倒れた悲劇の英雄として、ヤマトタケルは日本人によって言い伝えられている。
ヤマトタケルが東国征伐に用いた草薙の剣は、尾張(愛知県)に留め置かれたとされ、その剣を祀る為に創建されたのが熱田神宮だ。
同社では草薙の剣を熱田大神と呼び、アマテラスと同一視されている。