神功皇后(成務天皇40年 - 神功皇后69年4月17日)は、第14代仲哀天皇の皇后。
15代・応神天皇の母であり、応神の即位まで69年にわたり皇后摂政を務めた。この事から聖母(しょうも)とも呼ばれる。
三韓征伐を指揮した逸話で知られ、邪馬台国の女王・卑弥呼を思わせる不思議な力を持っていたとも云われる。
『日本書紀』では気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)・『古事記』では息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)・大帯比売命(おおたらしひめのみこと)・大足姫命皇后と記述される。
和暦 | 出来事 |
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成務天皇40年 | 息長宿禰王と葛城高額媛の長女として誕生 |
仲哀天皇2年1月 | 仲哀天皇に嫁ぎ皇后となる |
2月 | 仲哀天皇と角鹿の笥飯宮へ。翌月、天皇だけ紀伊国のコ勒津宮へ向かう |
6月 | 仲哀天皇が熊襲遠征を開始。皇后も天皇のいる穴門の豊浦津に向かう |
7月 | 豊浦津で海中から如意珠を拾う |
仲哀天皇8年9月 | 筑紫の僵日宮へ移動後、神懸りした神功皇后が渡海遠征を託宣 |
仲哀天皇9年2月 | 宣託を無視した仲哀天皇は神に怒りを買い崩御する |
4月 | 松浦県で誓約を行い遠征の成功を確信すると、橿日宮へ戻る |
10月 | 渡海して新羅を屈服させる。百済、高句麗をも従えた |
12月 | 帰国後に筑紫でホムタワケ(誉田別尊)を生む |
神功皇后摂政元年2月 | 穴門の豊浦宮で仲哀天皇の殯を行い、京へと向かう |
3月 | 仲哀天皇の次男・忍熊皇子との戦いに勝利 |
10月 | 皇太后摂政に就任する |
神功皇后摂政3年1月 | ホムタワケを太子に立て、磐余若桜宮に遷都 |
神功皇后摂政13年2月 | ホムタワケが武内宿禰と笥飯大神を参拝 |
神功皇后摂政47年4月 | 新羅、百済の朝貢。百済の使者・クテイが新羅に貢物を奪われたと訴える |
神功皇后摂政49年3月 | クテイに荒田別らを付けて新羅を再征伐 |
神功皇后摂政51年3月 | 百済の朝貢使としてクテイが来朝 |
神功皇后摂政52年9月 | クテイが来朝、七枝刀一口・七子鏡一面・及び種々の重宝を献上 |
神功皇后摂政62年 | 葛城襲津彦を派遣して新羅を再征伐 |
神功皇后摂政69年4月 | 皇后崩御(享年100歳) |
10月 | 狹城盾列池上陵に葬られる |
神功皇后伝説は、日本武尊伝説とならぶ、「記紀(古事記や日本書紀)」を代表する英雄伝説とされている。
『古事記』や『日本書紀』は、現存する日本最古の歴史書である。それらは奈良時代はじめに、41代天武・持統天皇ら皇室と藤原氏(中臣氏)など公家(豪族)の手でまとめられた。
神功皇后の夫・14代仲哀天皇の父がヤマトタケル、両者は義理の父娘関係であり、時系列的には2人の物語はそのまま繋がっている。逆に、この時代の天皇(12景行〜14仲哀)はついでのような存在となっており、ヤマトタケルと神功皇后の2人を中心に歴史が動いている
14代・仲哀天皇の皇后で、応神天皇の母でもある神宮皇后は、代々の皇后のなかでも特に重んじられてきた存在だ。
天皇の系譜が現在のように整備される近代以前には、神功皇后を歴代天皇の一人として数える事も在った程であった。
江戸時代をつうじて神功皇后は15代天皇とされていた。大正15年に政府決定で天皇から外されて以降、神功皇后を公式に女帝とする事はなくなった。(水戸光圀の『大日本史』では皇后とされた)
『古事記』は、神功皇后の事績をすべて、仲哀天皇のときの出来事として扱った。これは王家の伝承にもとづく『旧辞』の記事を忠実になぞったことからくるものである。『古事記』は前にあげた『帝紀』と、7世紀なかば頃にまとめられた『旧辞』という神話、伝説集をつなぎ合わせてまとめられた。
これに対して『日本書紀』は、全30巻の中の巻九を、神功皇后の時代の歴史の記述にあてた。その巻で神功皇后は歴代の天皇(大王)にならった扱いを受けたのである。
それでも歴代の天皇の代数に加えられない彼女にまつわる『日本書紀』の記述は「神功皇后摂政」の出来事とされた。『日本書紀』の編者は、百済との国交の開始と中国の魏朝への遣使を、神功皇后の時代の出来事とせざるを得なかった。そのため、彼女が実在の女帝であるかのような形の記述をとった。
『日本書紀』巻九の記事は4つの要素から成っている。
この中の@からBのものは、ひと続きの話になっている。 @からBは『古事記』にも記されているが、Cは『日本書紀』独自のものである。
神功皇后は、継体天皇の故郷である越前と深い関わりをもつ女性として描かれている。
『日本書紀』には、仲哀天皇が即位してまもなく越国(越前を中心とした地域)が白鳥を献上したという記事がある。
白鳥は人間の魂を運ぶ縁起の良い鳥とされるが、この白鳥は越前と深く関わる神功皇后の立后を予言するものと考えられていたらしい。
仲哀天皇は神功皇后を后に迎えてまもない仲哀二年に、越前の角鹿(敦賀市)に行幸して、そこに笥飯宮(氣比神宮)を建てたと『日本書紀』にある。
その宮は、神功皇后の実家の近くに設けられたものとされたらしい。
神功皇后は日子坐王の子孫の丹波に勢力を張った家の出で、母は但馬国に拠った天日槍の流れをひく。
日本海沿岸の広い範囲に勢力を張った王族の中に、越前を本拠とした家があったというのだ。
仲哀は紀伊にいたときに南九州に住む豪族・熊襲(クマソ)の反乱を知った。熊襲は仲哀の父・ヤマトタケルが一度は討伐した相手だった。
報せを聞いた仲哀は、九州の橿日宮(かしひのみや:福岡市にあったとされる、古事記では訶志比宮)に赴く。
このとき笥飯宮にいた神功皇后は、渟田門(若狭のどこか)を経て、豊浦津(下関市)で天皇と合流したようだ。
ところが仲哀天皇が群臣を集めて熊襲を討つ策を論議している時に、神が神功皇后に憑いてお告げを下そうとした。
そのため天皇が琴を弾いて神を祀り、大臣を務める武内宿禰という重臣が皇后の御言葉を伺ったところ、神が次のような神託を述べた。
「熊襲は空しい土地なので、海の西の金銀あふれる新羅の国を討ちなさい(熊襲は貧しいので、裕福な新羅へ侵攻せよ)」
天皇がその神託を疑ったところ、神は「あなたのような者に、天下を治めさせるわけにいきません」と告げて去って行った。
このあと仲哀天皇は、そのまま亡くなったという。
そのあと神功皇后が身を清めて改めて神を祀った時に、次の神託が下った。
「この国は、皇后様のお腹におられる皇子様が統治すべき国です」
神功皇后はこの神託に従って新羅を従え、帰国して皇子を生んだのちに、皇子を天皇(大王)に立てた。この皇子が誉田別(ホムタワケ)こと応神天皇である。
皇后は、神々を祀り神託を下した神の名を尋ねる。すると国内の有力な神が、次々に名乗り出た。そして、天照大神の命で底筒之男、中筒之男、表筒之男の三柱の神(住吉三神)が、皇后の遠征の航海の守護にあたることになった。この神々は、住吉大社(大阪市)祭神である。
皇后は鴨別という将軍を派遣して熊襲を従え、ついでに自らの手で九州各地の賊を討った。国内が平和になったので、神功皇后は朝鮮半島を目指す。
『日本書紀』に、神功皇后が鮎釣りで三韓遠征の成否を占う話がある。
皇后は「もし新羅に勝利するならば、川の魚よ釣り針を飲み込め」と願をかけ、遠征の勝負を占い、見事、鮎を釣り上げたとされる。
※これは古代に松浦(今の唐津)の地で行われた、その地の女性が海神を祀って釣りを行い豊漁を願う行事を踏まえたものとされる。
先に自軍の勝利を確認し、いよいよ神功皇后の船団は大陸・朝鮮半島を目指し出発する。
神功皇后は、神の言葉に従って武内宿禰と供に対馬を進発、新羅へ向かった。
神功率いる一行の乗った船は風の神の力によって順風満帆に進み、海の中の魚は船をかついで進み、海の神の力(波)によって陸地の奥まで船を押し進める、そして、魚の助けを借りたという。
神の力を借りた船団が起こす高い波で新羅は国の半分が水浸しとなり、その力を見た新羅王はすぐに降伏した。
これを知った高句麗王、百済王も降伏し、神功皇后は戦う事なく三韓を服属させる事となった。
(ただし現実的には、局地戦に勝利しただけで、三韓全ての服属については加筆と考えられる)
朝鮮半島進出という大規模な軍事行動にしては、皇后の新羅征討の説話はあまりにその内容が薄い。これは、この説話が事実ではなく、別の話を持ってきたからではないか、という見方もある。
広開土王碑文には4世紀末に倭国が朝鮮半島に軍事侵攻し、百済や新羅を臣民として従え、高句麗とも激しく戦ったことなどが高句麗側の視点で書かれている。神功皇后が行った三韓征伐が、そこに記載されている侵攻だとする説がある。
神功皇后、佐々木尚文画
神功皇后が男装し武内宿禰らを従えて新羅に出征した様子を描いている
武内宿禰が抱いている赤ん坊が後の応神天皇だ
(お腹に子を宿したままではなく、出産後に出征したとして描かれている)
『古事記』によれば、実は三韓征伐の時、神功皇后は臨月の身だった。
そこで、お腹(腰)に鎮懐石(ちんかいせき)という石を挟む呪いをして、新羅を従えるまで、出産を遅らせていた。そして九州に帰り着き、無事に立派な皇子(15代応神天皇)を出産している。
そのため皇子が誕生した地に、宇美(うみ:福岡県宇美町)の地名ができたという。なお、邪馬台国への道のりの一つとして『魏志-倭人伝』に「不弥国」がでてくるが、その比定地の一つにこの宇美町が含まれている。(関係性は不明)
また皇后がお腹(腰)に吊るした石が、伊斗村(いとのむら:福岡県糸島市)に残されているともある。
『古事記』に出てくるこの石は『釈日本紀(13世紀末著)』という『日本書紀』の注釈書に引かれた『筑前国風土記』に「児饗石」の名で出てくる。
古くから母神信仰の場であったその石が、神功伝説と関連づける形で、『風土記』という奈良時代の地誌に記されたのか。
このような神話が残っているということは、古代の九州北部には、巫女としての能力をもった豪族の女性が存在したことになる。
新羅征討から帰還した皇后は、更に仲哀天皇没後に起こった乱を平定し、応神天皇が位に就くまで、自ら政務を執り行うことになる。
新羅征討の翌年(神功元年)、神功皇后は仲哀天皇の嫡男である次男・香坂皇子と三男・忍熊皇子との対立が表面化。この2人の皇子は皇后の子・ホムタワケ(誉田別:応神天皇)の異母兄である。
そして皇后は、2人の皇子との滋賀付近での戦いで勝利、そのまま都に凱旋した。
この勝利により神功皇后は皇太后摂政となり、子のホムタワケを太子とし、磐余若桜宮に遷都する。
誉田別尊が即位するまでは皇后が政事を執ったため、この功績をもって聖母(しょうも)と称えられる。
皇后は摂政就任の後、たびたび新羅に干渉・接触している。新羅が百済からの貢物に手を付けていたとの理由から新羅の再征伐を行ったとされる。
一度目の再征伐が摂政49年。新羅が朝貢してこないからという理由から二度目の再征伐を摂政62年に行っている。
皇后は摂政69年目の4月に崩御する。享年は100歳であったという。(『古事記』『日本書紀』とも)
さらに10月、狹城盾列池上陵に葬られた。
皇后は、神の声を聞く不思議な力を持った上に、妊娠、出産、軍事、政治と全てをこなした神功皇后は、神話の中でも指折りの女帝だった。
『日本書紀』ではこの功績を称えて、神功皇后の為に独立した項目を立てて他の天皇と同様に扱っているのである。
彼女が持っていたとされる不思議な力は、『魏志倭人伝』に記される“邪馬台国の女王 卑弥呼”を彷彿とさせる。(が、別人と思われる)
>> 卑弥呼は誰だったのか?
6世紀後半の欽明天皇のあたりに『帝紀』と呼ばれる王家(皇室)の簡単な系図がつくられた。
しかしそれは大王(天皇)の名前を連ねただけのもので、そこに神功皇后にあたる人物はいなかったようだ。
そもそもの系図に名前が記されていなかった以上、天皇として数えるべきではないだろう。
神功皇后は、あくまでも伝説上の人物であった。その伝説は、さまざまな伝承をとり込んで7世紀に完成したものだ。
神功皇后は、『古事記』などでは“半神半人”の時代の人物とされる。
だから彼女は伝説上の存在で、奈良時代の女帝とは異なる人間とみられたのだ。
住吉大社は、新羅征討での住吉神社の加護に感謝した神功皇后によって創設されたと伝えられ、住吉三神(ソコツツノオ、ナカツツノオ、ウワツツノオ)
に加えて神功皇后も祭神に加えられている。
神社はそれぞれの祭神を祀った四つの本宮が立ち並ぶ珍しい様式で、摂津国一宮として多くの信仰を集めている。