景行天皇

第12代 景行天皇

垂仁天皇の第三子で、日本武尊の父であった景行天皇。
熊襲・蝦夷を討伐し、辺境にまで勢力を広げた。
在位期間は60年間で、106歳(古事記では137歳)で没したとされている。

日本武尊の父

景行は非常に精力家の天皇で后を10人もち、80人もの皇子女を設け、古事記では77子を諸国に封じたとされる。
ただし、これらの数字は事実とは考えられず、景行天皇の関しては実在が疑問視されている天皇の一人である。
なお、子である日本武尊も一部の学者からは存在を否定されている。

実在期間は3〜4世紀

ヤマト政権は、景行天皇の時代の実年代と考えられる3〜4世紀前半から、九州、東国に掛けて勢力を大幅に拡張している。
内容的に「記紀」のディテールにはかなりの違いがあるものの、この功績が、景行天皇と日本武尊の活躍によるものとしている点では一致している。

ヤマト政権の勢力を飛躍的に拡大させた

日本書紀では、まず熊襲(九州南部の地名、および同地に居住した種族)征伐は、景行天皇の親征としている。
景行が大和に凱旋すると再び熊襲が叛いたので、日本武尊が派遣されて熊襲の長、川上梟帥(かわかみたける:古事記では熊襲建)を討ったとある。

日本武尊の武勇

一方、古事記では熊襲征伐は物語の中心は日本武尊で、景行天皇の影は薄い
まず、日本武尊は小碓命(おうすのみこと)という名前で、景行天皇の命令を取り違えて兄を惨殺するという猛々しい皇子だった。
景行はこの豪勇を恐れ、熊襲討伐に小碓命を派遣した。
小碓命は伊勢へ赴いて叔母の倭姫命(やまとひめのみこと:天照大神を祀る皇女)の衣装を借り、女装して熊襲建に接近し、暗殺した。
熊襲建は小碓命の武勇を誉め、日本武尊(倭建)の号を献じた。
帰途、出雲建を倒し、大和へ凱旋した。

景行と日本武尊のすれ違い

続く東征では記紀の内容は日本武尊の再遠征という点でほぼ一致しているが、古事記では「天皇は私に早く死ねと思っておられるのか」と嘆く日本武尊の姿が描かれるなど悲劇の物語としての色合いが強まる。

天叢雲剣

日本武尊は伊勢で倭姫命より三種の神器の一つ、天叢雲剣を賜る。
東征は苦難の連続であった。
相模で野火の難にあった時、この剣で草を薙いで危機を逃れた事から「草薙の剣」と呼ばれるようになった。
浦賀水道では后の弟橘媛(おとたちばなひめ)の入水により、死を免れる。

父子の最後

苦難の末、東国を平定した日本武尊だったが、憔悴甚だしく、能褒野(三重県亀山市)で病死した。
古事記では「倭は国のまぼろば」で始まる有名な歌を遺し、日本書紀では白鳥となって大和、河内を巡ったとされている。
その後、景行天皇は近江国の志賀(滋賀県大津市)の高穴穂宮で没したという。

景行天皇・日本武尊が同一人物だった?

こうした景行天皇・日本武尊の伝承は、ヤマト政権成立時の国内征服の過程が伝説化された公算がある。
当時のヤマト政権の意図は分からないが、景行天皇と日本武尊が同一人物であった可能性も指摘される。


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