日本の商業

日本の商業の歴史

現代に生きる我々は、必要な物の多くを、近隣の店に足を運び、あるいはインターネット通販で注文する事で、入手する事が出来るようになった。
それ以前には、物を手配し、運ぶ手段や、入手方法、入手する場の発展があり、様々な立場から貢献する事を生業とする商人たちの営みがあった。
利便性の拡大と活発化に彩られた商業の2000年の歴史を振り返る。

弥生・古墳・飛鳥時代の商業

市や商人の誕生

狩猟採集社会から農耕社会になり、さらに手工業生産の農業労働からの分離が進むと、物品貨幣を基礎とした交換経済が成立し、一定の市場が形成された。
辻や津など人や物が集まる場所では、物品交換を行う場として「市」が自然発生し、物品の調達を生業とする商人も生まれた。
中央集権化が進むと、多くの豪族たちが居住する河内・大和に市が発達した。

古代の市

代表的な古代の市である大和国海石榴市(つばいち)は、集落としては2〜3世紀から存在が確認できる。
『日本書紀』にも飛鳥時代に隋使を迎えるなど頻繁に記事が見え、平安京へ遷都後も、長谷寺参詣者が立ち寄る市として賑わった。

古代の市の復元模型

古代の市の復元模型
奈良県立万葉文化館

奈良時代の商業

官営市の設立と遠隔地商人

律令国家体制が完成すると、平城京の左京・右京に官営の市(東市・西市)が設けられ、周辺と水陸路で緊密に結合し中央交易圏を形成した。
地方では、国府の市を中心に、既存の地方市を含む交易圏が形成された。
全国交通網も整備され、全国的流通体系が確立し、遠隔地商人が誕生した。

東市・西一

平城京に設けられた官営の市。
地方から運ばれた産物、官吏たちに現物給与として支給された布や糸などが交換された。

駅路と商旅

律令制下で都と地方を結ぶ駅路が整備されると、それを利用した遠隔地商人が発達した。
律令制下では、五位未満の下級貴族の商行為が認められ、都城造営や写経の様な国家的事業に参加しつつ、それに伴う商行為で利益を得ていた。

平安時代

私的な商行為の拡大

律令体制が弱体化すると、個別に有力な皇族・貴族・寺社と結びついた商人が神人(じにん)や供御人(くごにん)として私的な商行為を行った。
朝鮮半島や宋の商人と交易する者もいた。

神人

神人は下級の神職。
課役負担が免除された事から、下級官人や農民などが神人となる動きがみられ、社頭警備の他、様々な形で奉仕し、商業活動を行う者も多かった。

供御人

供御人は天皇の供御(食物)を貢納した者。
課役負担免除、関所などの自由通行権、営業権などの特権が与えられた事から、営業目的で供御人となる者もあらわれる。

貨幣経済の推移

政府鋳造の貨幣は地金の価値以上には市場に流通せず、稲や布などの物品による交易が広く行われ、10世紀中頃に貨幣鋳造は中断する。
12世紀の宋銭の大量流入が浸透の切っ掛けとなった。

平安末期〜鎌倉時代

定期市の活況と座の始まり

日宋貿易が活発になって宋銭が大量流入し、商品貨幣経済が進展。
鍛冶・鋳物師(いもじ)・紺屋などの手工業者が、農村内に住んで商品を作ったり、各地を渡り歩いたりして仕事をするようになった。
販売や製造の特権を認められていた神人・供御人らは、同業者の組合として「座」を結成。
やがて、寺社や荘園などを本所(庇護者)とし、一定の奉仕や貢納の代償として、課税の免除や営業独占権を認められた。
定期市が近畿地方を中心に開かれた他、常設の小売り店も見られるようになった。

定期市

月に数回、決まった日に開かれる市。
月に3回の三斎市などが全国各地で発達した。
市では市座が設けられ、市場税を納めた特定の商人だけが営業を許された。

定期市復元模型

定期市復元模型
国立歴史民俗博物館

室町時代

商業形態の発達

農業や手工業の発達により商品の数や量が増え、市場が拡大して地方の市場の数や頻度が増し、行商人の種類も数も増加する。
京などでは行商ではなく常設の店舗が一般化し、米や魚など、特定の商品だけを扱う卸売市場も生まれた。
神人や供御人の活動も最盛期を迎えて座の種類・数が増え、水運の整備、馬借の発達、問(問丸)の増加、酒屋・土倉による金融業の始まり、割符の商取引利用など、商業形態が飛躍的に発達した。

南蛮貿易と後期倭寇

16世紀半ばに始まったスペイン、ポルトガル商人との南蛮貿易により、多くの舶来品(はくらいひん)がもたらされ、京都、堺、長崎らの商人が成長する切っ掛けとなった。
そこに関わったのが、中国大陸沿岸部などで活動した後期倭寇で、その多くは明の商人であり、日本とスペイン、ポルトガル商人とを結ぶ貿易を行った。

戦国時代

楽市や自治都市の出現

戦乱が続いて座の本所の権威が失墜し、座外の地方商人の活動が活発化する。
戦国大名も、領国内の経済掌握を目的に、商人司(商人頭)を任命して領国内の商人支配を担わせ、楽市令を出すなどして城下町に多くの外来商人を招き入れた。
全国各地で定期市が開かれ、遠隔地商業も発達して港町、宿場町、寺内町などの多様な町が発達し、商人たちを支える組織が座から町へと変容。
堺や博多などでは裕福な商工業者たちが市政を運営した。

楽市令の出された市

京都から東の地域に主に分布している。
戦国期の商業統制の形態が地域により異なっていた為と考えられる。
近世初期までの商業の発展の度合いは、時代差以上に地域差が大きかった。

見世棚復元模型

見世棚復元模型 国立歴史民俗博物館
平安末期から京などに存在した常設の店舗(見世棚)は、室町時代に広まった

安土桃山〜江戸時代初期

近世商人の登場

統一政権が誕生して大規模な物資需要がもたらされと、陸上・水上交通が未整備の中、自分の船や蔵を持つ京都・堺・長崎・博多の有力商人(初期豪商)が、朱印船貿易や鉱山経営などに乗り出し、巨大な富を作った。

江戸時代前期

三都商人の時代

幕藩体制下で全国市場システムが整備される。
江戸・京都・大坂の三都に、近江・伊勢などの商人が進出し、幕府への冥加金(みょうがきん)・運上金の上納と引き換えに営業権・独占権を認められ(株仲間)、特権商人として成長する。
両替商や海運業なども行い、巨万の富を築く豪商も現れた。
一方で、小売商人の多くは常設の店舗を持たず、棒手振(ぼてふり:商品をてんびん棒でかついで売り歩く物売)などを行っていた。
他に江戸では「ファーストフード」といえる「屋台」も生まれ、握りずしや蕎麦、天ぷら等を素早く提供した。

越後屋の新商法

三井高利が1673年に江戸に開いた呉服店「越後屋」は「現金掛値なし(正札どおりに現金取引で商品を売ること)」「店前売」「正札販売」などの新商法を始め評判となった。
※現金掛値なし(正札どおりに現金取引で商品を売ること)
※店前売(店舗を構えて商品を販売する方法。商人が店舗で顧客と対面し、要望・予算に合わせて商品を蔵から持ってきて提示するという「接客販売」)

越後屋復元模型

越後屋復元模型
東京都江戸東京博物館

天下の台所・大坂

江戸時代、水運の要の地となった大坂は、物流・商業の中心として栄えた。
生活物資の多くが生産地からいったん大阪に運ばれ、全国の消費地へと送られた。

東廻り航路・西廻り航路

江戸初期、河村瑞賢(1618〜1699)が港の整備や船の開発などに取り組み、物の行き来の量が飛躍的に増えた。
西廻りの寄港地では廻船業が発展した。

江戸時代後期

地方商人の活躍

幕藩体制が揺らぐ中、有力諸藩によって保護された地方の藩御用商人が成長した。
一方、農村内では新興の在郷商人も成長して特権商人に対する反発を強め、特権商人の地位は大きく揺らぎ始めた。

幕末〜明治時代前期

「政商」の登場

開港によって欧米列強との貿易が始まり、新たな商品の出入りが増えると、外国人と直接取引を持ち掛ける売込商などの新興商人が成長する。
また、商人の中には幕府や藩の政争に巻き込まれて衰える者もいる一方、三井・岩崎(三菱)などは明治新政府御用達の政商として金融・貿易・海運などで独占的な利益を上げた。

明治後期〜大正時代

百貨店とメーカー系列店の台頭

近代法体系が整って自由な経済活動が保証されるなか、国内の商品流通では、問屋に代わる新たな担い手として百貨店やメーカー系列店が登場する。
増大する大衆の消費意欲の受け皿ともなって成長した。
一方で、中小小売商は大きな打撃を受けた。

時代のニーズをとらえた百貨店

百貨店は、その名の通り多くの品々を揃えた他、座売りから陳列式に変えて顧客が自由に商品を選べるようにする、第一次世界大戦後の恐慌時に安売りセールを行う、土足入城を可能にして店舗を拡大する、など時代のニーズをとらえた数々の改革を行い、成長した。

三越伊勢丹

三越伊勢丹

メーカーの流通支配

昭和前期には、松下電気器具製作所などのナショナルショップなど、問屋を仲介しないメーカー独自の全国的な販売網が整備された他、浅野セメントが原材料石炭石を輸送する鉄道会社を設立するなど、様々な局面でメーカーの流通過程への介入が強まった。

昭和前期

流通・消費統制と闇市

日中戦争太平洋戦争が激化して物資が不足し、流通・消費統制が行われて中小小売商の転廃業が相次いだ。
終戦直後も配給・流通機構が機能不全に陥る中でも活躍したのが闇市だった。

闇市

終戦直後、全国各地に生まれた闇市では、日用品や食料の小売りを中心に飲食店などが営業。
1949年、GHQからの撤廃命令が出され、やがて姿を消した。

闇市復元模型

闇市復元模型
豊島区立郷土資料館

昭和後期

流通革命とスーパーマーケット

配給・流通統制が撤廃され、経済が復興して個人消費が回復すると、百貨店が復活して黄金期を迎えた。
高度経済成長期には、大量生産された規格品を効率的に流通させる仕組みの形成が進み(流通革命)、スーパーマーケットが小売りの主役となった。
生協による共同購買活動、月賦販売(げっぷはんばい:月賦払いの契約で商品を売る事)やクレジットカード利用なども普及した。
低成長期になると、市場拡大が鈍化した一方で、スーパーマーケットは政庁を続け、郊外型の大型店舗も発展した。

「シャッター通り」となった商店街

地域の小売りの主役だった商店街やアーケードは、スーパーマーケットに取って代わられ、閉店・閉鎖が相次ぎ、シャッターを下ろした店舗が立ち並ぶ時代となった。

平成〜

コンビニ・電子商取引の発達

情報技術の発達に伴い、消費者ニーズに合った品だけを揃えた小規模店舗のコンビニエンスストアがスーパーマーケットに代わって成長。
消費市場をいち早く分析して低価格・紺品質の自社ブランドを大量製造する衣料専門店の他、情報技術の発達で電子商取引やネットショッピングが一般化する等、従来の枠を超えた新しい商業形態の展開が加速している。

出典・参考資料(文献)

  • 『週刊 新発見!日本の歴史 40号 「日清・日露」の高揚の陰で』朝日新聞出版 監修:宇佐美隆之

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