満州建国と日中戦争

満州事変を切っ掛けに日中戦争勃発

世界恐慌による不況の中、日本では軍国主義の台頭により、軍部が政治に介入するまで力を付けていた。
中国東北部での権益を得るため、清朝最後の皇帝溥儀を擁立し、満州国を建国する。
こうした日本の行動は、国際批判を呼び、日本はさらに孤立を深め、国際連盟を脱退する。
そして、1937年に日中全面戦争へ突入し、日本は長い戦争への歩みを始める事になる。

満州国の建国と、日本の国際連盟脱退

不況により、政権が不安定になる日本

第一次世界大戦を機に急速な経済発展を遂げた日本。
しかし、戦後は一転して不況に陥り、1918年には米騒動が起こるなど労働争議や農民運動が激化していた。
27年に金融恐慌が起こり、次いで世界恐慌に巻き込まれると社会不安が増大し、国内では軍部や右翼が勢力を伸ばしていた。

中国東北部を狙う日本

対外的にはワシントン体制を維持しながらも、日本は中国東北部での権益拡大を目論んでいた。
当時の満州では、関東軍と呼ばれる日本陸軍が駐留しており、蒋介石による北伐が進むと、その影響が満州にまで及ぶ事を恐れた。

満州事変と満州建国

そこで関東軍は、軍閥の張作霖(ちょうさくりん)を列車ごと爆破して殺害する。
31年には柳条湖事件(りゅうじょうこじけん)を切っ掛けに満州事変を起こし、東北部を占領した。
さらに、翌32年には清朝最後の皇帝(宣統帝)であった溥儀(ふぎ)を迎えて満州国を建国する。
この時代、満州は「日本の生命線」とまで言われる程、軍事的な要衝であった為、日本は満州での権益を第一としていた。
柳条湖事件:関東軍が柳条湖で鉄道爆破事件を起こし、これを中国軍の仕業として戦闘を開始した事件

日本の国際連盟脱退

この日本の行動を受け、国際連盟は満州国の正統性を調査する為、リットン調査団を派遣する。
調査団の調査・報告結果によって、国際連盟は日本の自作自演を疑い、満州国を独立国とは認めなかった
この、国連の決定に反発した日本は、33年に国際連盟を脱退した。

第2次国共合作で日本に対抗する中国

第2次国共合作

一方、中国国内では、蒋介石が共産党への攻撃を続けていた。
根拠地の瑞金(ずいきん)を追われた共産党軍は長征(ちょうせい:大西遷)の末に延安を新たな根拠地とし、党内では毛沢東の指導者としての地位が確立していた。
共産党は1935年に、内戦の停止と抗日統一戦線の結成を呼び掛ける八・一宣言を出したが、蒋介石はこれを無視した。
しかし、内戦に反対する張学良(ちょうがくりょう)が西安で蒋介石を軟禁する(西安事件)。
この西安事件を機に、37年9月、第2次国共合作が成立した。

盧溝橋事件を切っ掛けに日中開戦

この時期、日本では二・二六事件などでますます軍部の力が強まっていた。
ドイツ・イタリアの枢軸国との関係を深めると共に、中国での勢力拡大を急いでいた。
そして、第2次国共合作成立直前の37年7月、盧溝橋事件(ろこうきょうじけん)を切っ掛けとして中国との全面戦争に突入した。
盧溝橋事件:北京郊外で日中両軍が衝突、現地の日本軍が事件を拡大した事で、戦闘は全中国へ広がった。

日本軍は上海、広州の他、首都の南京を占領。
この時、多数の捕虜や一般市民が殺害されており、国際的な非難を浴びた。
中国国民政府は重慶に移って抗戦を続けたほか、共産党は農村や山岳地帯でゲリラ戦を展開する。
都市とそれを結ぶ鉄道という「点と線」の支配しか出来なかった日本軍は次第に息詰まるようになっていった。


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