幕府の三大改革

江戸幕府の三大財政改革

江戸幕府の財政再建を目指して行われた享保寛政天保の三大改革。
しかし、そもそも貨幣経済に対し否定的で、米を資本とした幕府の財政改善には繋がらなかった。
そして、江戸時代も後期に入ると、幕府の権威は衰退していった。

破綻寸前まで陥った幕府の財政

幕府の財政基盤は農民による年貢(米)だった

幕藩体制を支えたのは、人口のおよそ8割を占める農民だった。
彼らは財政基盤である年貢の負担者として最重要視され、私生活にまで及ぶ綿密な政策が実行された。
農民らが、貨幣経済へと巻き込まれ、農耕を捨てる事を幕府が危惧したのだ。

カツカツの幕府財政4

徳川家の直轄領(幕領)は400万石余に達していたが、ここからあがる年貢とその他の雑税を加えての年収は、およそ76万両強になる。
しかし、夏と冬に支給される旗本の俸給30万両余を引くと、残りは46万両程となる。
現在の金額に換算すると1000億円程度である。
これで幕府という中央政府を運営し、且つ徳川家の家計を賄わなければならなかったという。
ピンとこないが、徳川家の金遣いが相当荒かったという事だろう。

さらに、商品流通の飛躍によって物価が高騰し、飢饉や災害による租税の減収が追い打ちをかけ、幕府の財政は火の車だった。

再建には至らなかった幕府の三大改革

吉宗の享保の改革

1716年、8代将軍に就任した徳川吉宗は、将軍親政による享保の改革をスタートさせる。
吉宗は新田開発と倹約によって財政を立て直し、また法令の整備や提訴の円滑化を図って、改革派それなりの成果を上げた。
しかし、急な変革に民衆の不満が噴出、全国で一揆や打ちこわしが急増し、幕府の権威は揺らいでいった。

田沼意次の商業経済

10代将軍 家治の時代に入ると、老中 田沼意次による大胆な経済改革が行われた。
「米」から「金」へと視点を移し、商人たちからの納税を開始したのだ。
さらに、全国まちまちだった貨幣の材質を全国で一本化するなどの改革も行った。
しかし、これまた民衆の不満が噴出、一揆の頻発により、意次は罷免されてしまう。

松平定信の寛政の改革

田沼意次の後を受けた老中 松平定信は、幕府の権威強化と財政難解消のため、厳しい統制や倹約を強行する「寛政の改革」を行う。
しかし、各所からの反発が激しく、定信も失脚した。

その後、外国船の来航が相次ぎ、飢饉や大規模な一揆も頻発する。

水野忠邦の天保の改革

1841年に老中となった水野忠邦は、幕府の再興を目指して天保の改革を断行する。
しかし、この改革もさほどの成果は上げられず、江戸・大阪周辺の土地直轄化を図った上知令が出されると、大名や旗本の不満が爆発する。
忠邦は失脚し、改革は頓挫した。

三大改革の失敗は、幕府の権力の衰退を露呈する結果となった。


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