水野忠邦

天保の改革 水野忠邦

水野忠邦

先祖代々の領地を手放し、幕政中枢へ

1817年、唐津藩主(現在の佐賀県唐津市)の水野忠邦は、自ら願い出て浜松藩(静岡県浜松市)へ転封した。
経済面で圧倒的に裕福な唐津領を手放したのは、長崎警護の任務があって、藩主が幕閣に加われないためだった。
水野は幕政中枢への参加を志しており、水野家4代が50年以上所領した領地を手放すことも辞さなかった。
さらに、昇進に向けて各方面に多額の付け届けをした事で、水野は順調に出世し、幕閣の中枢である老中首座に就任した。

家斉の死後、幕政改革に乗り出す

就任当時は11代将軍の徳川家斉が隠居し、大御所として権勢をふるい活躍の機会はなかった。
しかし、家斉が亡くなると、水野は直ちに幕政改革に着手した。
改革の目標は、家斉の大御所政治放漫化した財政を立て直し、山積みする内憂外患対応できる政治基盤を固める事であった。
水野は享保、寛政の改革を模範に、経済引き締め社会規模の更生を改革の中心に据えた。

天保の改革

水野が執った諸施策のうち、風俗取締策は模範となった両改革に比べて、極めて厳しいものであった。
取締を実行する町奉行はこれに批判的だった。
北町奉行の遠山景元(とおやまかげもと)は「些細な楽しみがある方が、小民が悪事に走らずちょうどいい」との意見書を出し対抗している。
これに対し水野は、景元の同僚となる南町奉行に、腹心の鳥居耀蔵(とりいようぞう)を置く事で、取り締まりを強行させた。

排斥運動により失脚

しかし、強硬手段は庶民には通用しても、大名や旗本には通用しなかった。
1843年に、上知令(あげちれい)が発せられると、年貢収入の減少という経済的な損失への不満もあり、所領を手放す事への対抗が続出した。
これに対し水野は「所領を加えるも減らすも時々の将軍の考え次第のはずだ」と反論したが、かえって水野を排斥する運動を高騰させる事になってしまう。
結局、改革の効果を挙げられないまま、水野は失脚した。
彼が老中を罷免された夜、水野家の上屋敷前に大勢が集まり、小石を投げ入れ、番所を破壊する狼藉を働いた。
そこには町人だけではなく、武士も混じっていたという。



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