アイヌによって独自の分化が形成されていた北海道は、本州以南に住む「和人」から「蝦夷地」と呼ばれていた。
鎌倉時代、コシャマインの戦いを鎮圧した蠣崎氏による統治を受ける。
19世紀に入ると、ロシアの南下政策による脅威から、江戸幕府の直轄地となり、それ以降、日本の一部「北海島」となった。
>> 北海道の歴史年表
蝦夷地のアイヌは狩猟、漁労の生活を営み、独自の分化を形成していた。
ところが15世紀になると、本州以南に住む「和人」の移住が相次ぎ、不当な交易や収奪でアイヌを圧迫した。
1457年にはアイヌの首長コシャマインが蜂起するが、蠣崎信広(かきざきのぶひろ:武田信広とも)によって鎮圧された。
以後、蠣崎氏(後の松前氏)による蝦夷地の支配が侵攻した。
1604年、松前藩は徳川家康からアイヌとの交易独占を保障されて藩政を敷いた。
松前藩は、家臣に知行として、特定地域におけるアイヌとの交易権を与えた。
この交易対象地域の事を商場、または場所と呼んでいる。
1669年、シャクシャインの戦いが発生した。
アイヌの首長シャクシャインが指揮をとり、各地のアイヌと共に一斉蜂起。
しかし、シャクシャインが和睦の宴席で謀殺されてしまい、アイヌは敗北してしまった。
以後、アイヌは、松前藩への全面的な服従を余儀なくされた。
松前藩は、商場での交易や漁業生産を和人商人に請け負わせ、運上金を上納させるようになる(場所請負金)。
アイヌは自立した交易相手から、漁場における労働者として酷使される状態へと転落していった。
1789年には国後島と目梨地方のアイヌが蜂起し「クナシリ・メナシの戦い」が勃発するが、松前藩に鎮圧されてしまい、以後、アイヌの組織的な蜂起はなくなった。
江戸時代、北海道は幕府によって未開の地だったが、18世紀末にはロシアの南下政策により、ロシア船の来訪が相次いだ。
ロシアによる脅威からの北方警備の為、幕府は1807年に全蝦夷地を直轄地とした。
1821年、松前藩に支配権を返還するが、1854年、日露和親条約が結ばれると、翌年幕府は再び蝦夷地を直轄化。
松前藩と東北諸藩に分類・警備させる事になった。
西暦 | 出来事 |
---|---|
紀元前3〜7世紀 | 縄文時代 北海道には弥生文化が伝わらず、狩猟・漁労中心の分化が根付いていた。 |
7〜13世紀 | 擦文時代(さつもんじだい) 刷毛目(はけめ)の文様の付いた擦文式土器が使用された。 |
13世紀 | アイヌ文化が形成される。 |
15世紀 | 和人が北海道に移住し始める。 これにより、アイヌと和人の抗争が始まる。 |
1457年 | コシャマインの戦い |
1593年 | 蠣崎氏が秀吉より北海道の支配権を認められる。 |
1604年 | 松前氏(蠣崎氏が改姓)が家康よりアイヌとの交易独占権を認められる。 松前藩が成立 |
1669年 | シャクシャインの戦い 松前藩の支配が北海道全土に及ぶ。 |
18世紀前半 | 和人商人によるアイヌの搾取が始まる。 |
1789年 | クナシリ・メナシの戦い |
1799年 | 幕府が東蝦夷地を直轄化。 |
1807年 | 幕府が西蝦夷地を直轄化。 |
1821年 | 幕府が松前氏に蝦夷地復領。 |