与力と同心のお仕事

与力と同心

与力と同心の仕事と、役割分担

江戸の南北町奉行所には、配下として与力と同心がいた。
他の役所にも、与力と同心がいたので、町奉行配下の場合、「町与力」と「町同心」と呼ばれていた。
御家人たちがこの職に就き、町奉行のもと、江戸の行政、警察、司法を担当していたのである。
1人の与力数人の同心を従えていた

与力が上司で、同心が部下

与力は、馬に乗る事の出来る分隊長で、同心はその部下であった。
現在の警察でいうと、与力が警察署長クラスで、同心は刑事である。
実際の捕り物では、与力は見届け役で、検視役を務めており、同心が与力の指示に従って捕り手を引き連れ、「御用だ御用だ!!」と駆けつけ、下手人を捕まえていた。

与力は、同心よりも難しい仕事を担当する

他に、与力たちは、町奉行の補佐役として、行政上の様々な仕事をこなしていた。
例えば、役所の予算や同心の任免などを担当する「年番方」、取り調べを行い実質的に判決を下す「吟味方」、判例の調査を担当する「例繰方(れいくりかた)」、人別を調べる「赦帳・撰要方(しゃちょう・せんようかた)」など、同心よりも重要な役職に就いていた。
当然、給与も与力は200俵、同心は30俵と大きな差があった。
ちなみに、町廻りは同心の仕事だ。
彼らは身分を隠して、様々な所へ出入りして情報を集め、町を巡回していた。

与力・同心はどうやって江戸を守っていた?

与力・同心ともに世襲される

町与力の定員が南北町奉行で各25騎とされたのは、八代吉宗の時代で享保4年(1719年)である。
その後、欠員が出ても補充しなかった事があり、正式な与力はやがて各23騎の世襲制となった。
一方、町同心の定員は、最初は南北各100人であったが、後に各140人となり、こちらも世襲制とされた。

複雑な町奉行と与力・同心の関係

従って、町奉行の与力と同心は、代々同じ職場で働く事となる。
それに対して、責任者である町奉行は、多くの場合、2〜3年程で交代してしまう。
そのため実務は、経験が豊かな与力や同心の力に負うところが大きかったのである。

しかも、与力や同心にとって町奉行はただの上司であり、家禄を与えてくれる主君ではない
よって、町奉行の人柄や能力によっては、与力や同心と上手く行かない事もあったようだ。
そこで、町奉行は、自分の元々の家来を「内与力」や「側用人」として連れてきて、祖畿内の潤滑油として働かせていた。

非公式の協力者たち

同心のうち、現在でいう刑事にあたるのは「定廻り同心(じょうまわりどうしん)」であった。
巡回や犯罪の捜査、犯人逮捕を担当していた。
ところが、その定員は、奉行所につき、僅か6名ずつしかおらず、南北合わせても12人しかいなかったのだ。
先輩格の臨時廻り同心も同人数だったので、たった24人でお江戸の治安を守っていたといっても過言ではない。
無論、人手不足なので、各同心の下には10人以上の岡っ引き(末端を担った非公認の協力者)が付き、その配下にはさらに大勢の下っ引きがいた。
江戸全体では、岡っ引きが約500人、下っ引きは約3000人もいたという。


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