目付と遠国奉行

目付と遠国奉行

目付と大目付

江戸時代に存在した役職、「目付」と「大目付」。
両者の役割とは、各地の武家が悪事や不正、謀反などを企てていないか監視を行う事であった。
主に目付が旗本と御家人の監視を担当し、大目付が大名の監視を行っていた。

目付

旗本や御家人には、稀に悪事を働く者もおり、家督相続などを巡る騒動も頻繁に起きていた。
そんな時に、詳しく調査を行うのが目付の仕事だ。
不良旗本やお家騒動は、幕府の最高裁判所といえる評定所で審理されたが、目付はその審理に同席して調査結果を報告した。
目付の定員は10で、広い詰め所に詰め、机と火鉢が一つずつ与えられた。
茶が飲みたくなると、釜の前にいる茶坊主に頼めばよかった。

目付になる旗本の条件

目付は、300石以上の旗本から起用された。
該当する旗本は2000人近くもいたが、そこから10人しかいない目付の座に就くのは大出世といえる。
しかも、目付は、将軍に直接申告する事が出来たので、小身の旗本としては、最も権威のある役職だ。
欠員が出来た時だけ新任され、目付全員の合議によって、採用が決められた。
目付としての働きぶりが評価されると、遠国奉行などに任命され、さらに出世する者もいた。

大目付

一方、諸大名の監視を行う「大目付」は、老中の支配下にあって、定員は4〜5人程であった。
通常、大身の旗本から選ばれ、大名に準じる格式が与えられた。
仕事の中身は、各大名の居城修理の許認可や、大名家のお家騒動の調査・裁定、全国へ法令を伝達する事などだった。

幕府直轄地「天領」と「遠国奉行」

江戸幕府は、全国に直轄地(天領)を持っていた。
その禄高は、およそ400万石前後で、幕府財政の基盤になっていた。
直轄地には、原則として代官が置かれ、年貢の徴収や統治を担当していたが、特に重要な場所には、遠国奉行という役職が置かれていた。
具体的には、京都、大坂、駿府、伏見、奈良、堺、長崎、函館、山田、佐渡、浦賀、日光などである。

遠国奉行の力はとても大きい

遠国奉行は、家禄1000〜2000石程の旗本から選ばれ、老中に直属する役職だ。
幕府を代表して直轄地を支配するのだから、その権限は大きかった。
例えば、有事の際には、近隣の大名に出兵を要請し、直接指揮を執る権限もあった。
それもあって、遠国奉行は、江戸城本丸の「御座の間」で、将軍直々に任命された。
任地へ向かう行列も、大名行列と変わらないものが許されていた。

京都の玄関口「伏見奉行」

遠国奉行の中でも、唯一、大名が就任したのは「伏見奉行」である。
伏見は京都の入り口にあたる事から、特別に重要視されたのだ。

港を守る遠国奉行

遠国奉行の内、江戸に入る船舶を監視していたのが、下田奉行浦賀奉行だ。
当初は、下田(現在の静岡県)に置かれたが、江戸中期、江戸湾の経済活動が活発した事で、浦賀(現在の神奈川県)へ移された。
ペリー提督率いる黒船が来航した際に、最初に対応したのが、この浦賀奉行である。
幕末には、日本を訪れる外国船が増えた事で、再び下田にも奉行所が置かれた。

遠国奉行となった有名人たち

その他、長崎町政とオランダ貿易を担当した「長崎奉行」、日光東照宮を守護した「日光奉行」、伊勢神宮の守護と門前町を担当した「山田奉行」などが重要拠点だった。 ちなみに、八代吉宗の下で町奉行となった大岡忠相の前職は山田奉行だった。
火付盗賊改の「鬼平」こと長谷川平蔵の父親は、京都町奉行を務めた事があった。
また、遠山の金さんこと遠山景元の父親は、元は僅か500石の旗本だったが、幕府の試験で優秀な成績を収め、長崎奉行に任じられた。
幕末を除き、長崎奉行は遠国奉行のなかの最高位だった。
金さんの父親も異例の大抜擢をされた人物だったのだ。


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