町奉行のお仕事

町奉行のお仕事

江戸を取り締まる町奉行

屋敷と奉行所はすぐ近く

江戸時代、奉行所と町奉行の屋敷は、同じ敷地内にあった。
敷地内の3/4程が奉行所の建物で、その奥に奉行一家の暮らし私邸があり、廊下で繋がっていたのだ。
よって、通勤時間はとても短く、町奉行たちは、8時頃に家を出て、少し廊下を歩けば、すぐ職場に着いたのだ。

お奉行さんは忙しい

しかし、お奉行らは職場に着くと、たちまち仕事に忙殺されていた。
机の上には、絶えず訴状が山盛りになっていたのだ。
町奉行一人が、1日にこなした裁判の件数は、実に20〜40件程であった。
裁いても裁いても、訴状が持ち込まれた。

南町奉行所と北町奉行所の二つ

江戸には、南町奉行所北町奉行所が置かれた。
南北に分かれてはいるが、何も江戸の町を南北に二分し、それぞれ担当していたわけではない。
両者の場所は、現在の有楽町駅と東京駅にあったわけで、殆ど離れていなかった。

両奉行所は交代制

両奉行所は、1ヶ月毎の月番制で、交互に訴訟や請願を受け付けていたのだ。
月番の期間に受け付けた訴状を、非番の期間に事務処理する体制だったが、それでも訴状の山は一向に減らなかったという。

午前中に江戸城へ出向く

月番の町奉行は、出勤すると、部下の与力たちに指示を出した後、10時に江戸城へ登城し、芙蓉の間に詰めて、町触れの草案を練るなどの仕事をこなしていた。
また、中奥の老中部屋へ出向いて報告を上げたり、逆に老中から呼ばれ指示を受ける事もあった。
暇を見て弁当を食べて、午後2時頃には江戸城を出て、奉行所へ戻っていた。

複雑な事件を扱う評定所の会議

また、月番・非番に関わらず、町奉行が最優先で出席したのが、評定所(ひょうじょうしょ)の会議だ。
月に三度開かれ、扱ったのは、大名のお家騒動や直参旗本に関する案件で、かつ、町奉行、寺社奉行、勘定奉行の三奉行の所轄範囲が複雑に入り組んでいるような事件だった。
通常は合議制で処理されたが、ときには老中が出席したり、将軍の決裁を仰ぐ事もあった。

午後から裁きを行う

奉行所では、午後2時過ぎから、民事や刑事の裁きの次官となる。
といっても、テレビで見るような「お白州」での取り調べはしなかった。
実際の取り調べは、花形与力と呼ばれた吟味方が既に済ませていたのだ。

死罪には、将軍の許可が必要

奉行は罪状を読み上げ、形式的に2〜3の質問をすると、流刑、追放、敲き(たたき)、お叱り程度の刑罰の場合のみ、判決を申し渡した。
死罪に相当するような場合は、将軍の許可を受けて、老屋敷まで検使与力を派遣、そこで死刑を宣告して即日処刑となった。

日暮れと共に、奉行所も閉じられる

裁きは、およそ午後4時までには終わり、日暮れと共に大門は閉じられた。
しかし、机の上は依然として訴状の山だった。
幕府の役職の中でも、激務中の激務と言われた町奉行の残業は、深夜まで続いたという。

なぜ、町奉行の任期は短いのか

江戸の町に南北の町奉行が設置されたのは、三代将軍 家光の時代だ。
それから約200年もの間に、歴代の北町奉行は43人、南町奉行は50人を数えた。
この中には、遠山の金さんのように、南北の両町奉行を務めた人もいた。

名奉行たちは10年以上、奉行を務めた

遠山の金さん」こと遠山景元は、天保11年(1840年)3月に勘定奉行から北町奉行へと出世した。
ほぼ三年間務めたものの、天保の改革に抵抗した事で、老中の水野忠邦らによって大目付に異動させられてしまう。
役職の上では、昇格ともいえるのだが、明らかな報復人事であったといわれる。
ところが、その後、水野忠邦が失脚する。
金さんは、弘化2年(1845年)3月、今度は南町奉行に異動となり、7年間務めている。
金さんは南北合わせて奉行を10年間勤め、大岡忠相は、南町奉行を19年間も務めている。

通常、奉行の在任期間は短い

しかし、彼らはあくまで例外的な存在だ。
通常は奉行の在任期間2〜3年程度だった。
町奉行職は激務中の激務だった為、体力が続かなかった事もあるのだろうが、在任期間が短かった理由には、南北の相手奉行との関係もあったようだ。

奉行同士の下剋上

例えば、新しく奉行の職に就いた者は、担当の裁判や捜査は自由に出来ても、行政に関する事は、先任の奉行と協議しなければならなかった。
現在の職業でいえば、警視総監と東京地裁所長、東京地検検事正としての仕事などは自由に出来たが、東京都知事の職務に関しては、先輩奉行を立てる必要があり、必ずしも自由には出来なかったのだ。
さらに、先輩奉行の中には、後輩奉行に嫌がらせをする者もいたという。
そこで、新任の奉行は、なるべく早く先輩奉行が交代する事を望み、裏で画策するようになった。
そのため、町人からよほどの人気を集めなければ町奉行を長く務めるのは難しかったのだ。
町奉行は、江戸時代から既に民主主義的であった。


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