武士の家計

武士の日常 武士の家計

武士の給料

江戸時代の武士たちは、現代の労働者と同じで、給料を貰って暮らしていた。
支払いの方法には、大きく分けて「知行取り」「蔵米取り」「給金」の三種類があったが、原則として、給料は米で支給されていた。

知行取り

知行取りというのは、給料を領地の形で貰う事をいう。
例えば「100石の知行」といったら、一年間に100石の米が収穫できる土地を貰っていた、という事である。
1石を1両、1両を6万円として計算すると、年収は600万円という事になる。

武士と農民の税率

もちろん、これは領地で採れた米を全て数字に換算した場合の話である。
稲作を行う上で、農民の存在は不可欠であり、当然、農民たちにも収穫量の一部を給料として支給していた。
具体的な米の取り分に関して、「四公六民」という割合で分けられていた(北条早雲の善政)。
四公」とは武士の取り分で、収穫量の40%を武士が貰う。
六民」とは農民の取り分で、収穫量の60%を農民が貰っていたのだ。
意外に思うかもしれないが、江戸時代の年貢割合は武士より、農民の方が多かったのだ。
※ただし、地域によっては「五公五民」と、お互い均等に分けあう地域もあった。
上記の例で計算すると、100石取りの武士の年収は240万円程度となる。

蔵米取り

蔵米取りというのは、幕府や藩の米蔵から俸禄として米を受け取る事で、要するに米の現物支給である。
知行地を持たない少禄の旗本や御家人は、幕府からこの蔵米を貰っていた。

給金

「給金」は、文字通り給料を金銭で貰う事だ。
最も身分の低い武士の場合、一年に貰えるのは3両1分(1分は1両の1/4)で、今のお金で言えば、年間で20万円程度しかもらえなかった。
100俵取りの武士でも、中間一人、下女一人雇っていると、食べるだけでやっとだった。
それ以下の下級武士たちは、非常に苦しい生活を強いられていたのである。

実際、享保7年(1722年)の記録を見てみると、旗本は5205人で、平均の石高は507石(俵)。
それに対し、御家人は17390人で、平均はたったの32俵である。
給料だけでは食べていけない御家人たちは、せっせと傘張りやアサガオ栽培などの内職に励んで家計をやりくりしていた。

高給取りの侍

では、高給取りの侍はどれくらいの給料を貰っていたのだろうか。
池波正太郎の小説「鬼平犯科帳」でお馴染みの長谷川平蔵は年収4000万以上、遠山の金さんに至っては8000万以上も稼いでいたという。

給料として貰った「米」の使い方

米が通貨としての役割を果たしていた江戸時代、武士の禄(給料)は、原則として米で支払われていた。
しかし、米だけを大量に貰っても暮らしてはいけない。
味噌や野菜、日用品や衣類も必要だ。
すれらは、全て現金で買う必要があったのだ。

米の換金所「蔵前」

上記の事情から、武士たちは、米を金に変えていたのだが、米の換金場所は、現在の台東区浅草橋の隅田川沿い「蔵前」にあった。
ここには、地名の由来どおり幕府の米蔵がズラリと並んでいた。
そのため、給料日ともなれば、旗本や御家人たちが「支払手形」を持って、続々と集まって来たのだ。

支払手形

支払手形とは、米を米蔵から受け取るための札の事をいう。
札に受取人の名前を書き、蔵役所においてあるワラの束に差して、自分の順番を待つというシステムである。

札差という職業

しかし、行列を作って米の支給を待ち、なおかつその米を商人に売捌いて金にするには時間もかかり、武士自らが行うのは厄介だった。
そこで登場したのが、「札差(ふださし)」という商人だ。
札差は、旗本や御家人の代理として米を受け取り、米商人への売却から換金までを一手に代行した。

札差の手数料

むろん、札差に代行してもらうには、手数料(札差料)が掛かる。
と言っても、米を受け取ってもらう手数料は、米100俵につき金1分(1両の1/4)、米商人に売却する手数料(売側)は金2分(1両の半分)とわずかな額だった。
よって、金勘定が嫌いな武士たちは、喜んで札差を利用した。

札差地獄?

ところで、札差は代行業者であると同時に金貸しでもあった。
将来貰うはずの蔵米を担保に、金を借りる旗本や御家人が沢山いたのである。
ようは給料の前借りだったが、毎年のように借金をすると、利子を返済するのも大変だった。
この札差地獄に苦しんでいた武士も少なくなかったのだ。


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