桶狭間の戦い

桶狭間の戦い 信長の大逆転劇

桶狭間の戦い(おけはざま)は、永禄3年5月19日(1560年6月12日)に尾張国桶狭間で行われた戦い。
織田信長今川義元を討ち取って今川軍を退却させた。
今川軍2万5000の大軍を信長はわずか3000で打ち破ったとの伝説もあり、日本三大奇襲(三大夜戦)に数えられる、歴史的に有名な戦いである。
信長はこの戦いで一挙に大名として昇り詰め、東海の勢力図はあっという間に塗り替えられた。
当時、徳川家康は今川家の人質となっており、この戦いで徳川家康が大名として独立を果たし、戦国時代の重要な転機となった。

『尾州桶狭間合戦』歌川豊宣画

『尾州桶狭間合戦』歌川豊宣画
桶狭間の戦いの3枚揃錦絵

今川2万5000の大軍が尾張へ

織田家の内通者が今川に城を明け渡す

信長尾張(おわり)を統一したころ、駿河(するが)の今川義元遠江(とおとうみ)・三河(みかわ)も支配下に収め、さらに西へ勢力を広げようと画策していた。
天文21年(1552年)、鳴海城主である織田方の山口教継(のりつぐ)が裏切り、今川方に付いた。
教継は尾張国内に砦を築き、そこに今川軍を招き入れていた。
さらに永禄2年(1559年)、教継は沓掛城(くつかけじょう)と大高城も今川方に寝返らせる。
これにより今川家の脅威は尾張南部まで迫ってきた。

今川2万5000の大軍が尾張へ侵攻

これに対し、信長は鳴海城を囲むように丹下砦(たんげ)・善照寺砦(ぜんしょうじ)・中島砦を築き、さらに大高城の周辺に鷲津砦(わしず)・丸根砦を築いて対抗した。
さらに調略を仕掛け、織田を裏切った教継を殺害した。
このような情勢の下、義元は約2万5000という大軍を率いて駿府を出陣する。
永禄3年(1560年)5月10日の事である。
17日には尾張に入り、丸根砦と鷲津砦に攻撃を仕掛けた。

信長出陣

一方、織田方では清州城に籠城するか出陣するかで意見が分かれていた。
だが、19日午前3時ごろ、丸根砦・鷲津砦攻撃の報せを聞いた信長は不意に跳び起きると、幸若舞「敦盛」を舞った後に出陣の身支度を整えたと云われる。
小姓衆5騎のみを率いて清州城を発った。

熱田神宮で戦勝祈願

午前8時頃、信長は熱田神宮に到着。
この頃になると後続の軍勢も合流し、約3000の兵が集まった。
そして信長は、熱田神宮で戦勝祈願を行った後に、善照寺砦に向かって出撃した。

不意を衝き今川軍を壊滅させた信長

信長、桶狭間の今川本陣へ

織田軍が善照寺砦に入った頃、鷲津砦と丸根砦は今川軍の攻撃に耐えきれず陥落した。
そして義元は桶狭間と呼ばれる狭い盆地に移動し、休息を取っていた。
午前11時頃、信長は善照寺砦を出発し、中島砦を経て南島へと進撃する。
この頃、信長は桶狭間に今川本陣がある事を察知していたとされている。

迂回奇襲と正面奇襲説

因みに、従来は風雨を味方に付け側面から奇襲した「迂回奇襲説」が定説だった。
しかし現在では、正面から今川軍を攻撃した「正面奇襲説」が定説になっている。

義元討死

午後1時ごろ、視界を遮る程の豪雨が降る。
これにより今川軍は織田軍の進撃に気付かず、信長を勝利に導く要因の一つとなった。
雨が止んだ午後2時頃、織田軍が義元の本陣に攻め入った。
不意の攻撃に今川軍は動揺し、やがて義元も毛利新助により討ち取られた
この戦いで今川家の勢力は大きく衰退し、代わって織田家が台頭する事になる。

徳川家康

松平元康(もとやす:徳川家康)は当時、今川家に人質として差し出されており、元康もこの戦いに参加していた。
義元が織田信長に討たれた際、大高城で休息中であった元康は、大高城から撤退する。
松平家の菩提寺である大樹寺に入り、自害しようとしたが住職の登誉天室に諭されて考えを改めたという。
その後、今川軍が放棄した岡崎城に入ると独自の行動をとり、今川からの独立を果たす事になる。


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