秀吉の小田原攻め

秀吉の小田原攻め

小田原攻めは、天正18年(1590年)に豊臣秀吉が関東・小田原の後北条氏を攻めた戦い。
大名間の私闘を禁じた「惣無事令」に従わない北条氏の居城・小田原城を、秀吉が約14万人の大軍で包囲した。
小田原城は城下町まで含めると、外郭は周囲9qに及び、数年間もの籠城戦にも耐えられる用意がある難攻不落の拠点のであった。
秀吉は小田原城周辺の支城を次々と落とす一方、石垣山に一夜城を築いて超長期戦に備えるなど、様々な奇策を駆使する。
攻略不可能に思えた小田原城と北条軍を次第に追い詰められ、遂に開城した。
小田原征伐、小田原合戦、小田原の役、北条征伐、小田原の戦い、小田原の陣、小田原城の戦いとも呼ばれる。

『小田原城下図屏風』戦国時代の小田原城

『小田原城下図屏風』馬の博物館蔵
江戸時代初期の作品で、城下の人々の賑わいが描かれている
水堀にも冊が掛けられ、町が丁寧に管理されていた事が窺える

小田原攻め略歴

秀吉が沼津に到着
3月27日、秀吉は沼津に到着し、29日から山中城などの支援を攻撃開始
北から支城攻撃
前田利家や真田昌幸らが北関東の北条氏の支城を攻撃
南から支城攻撃
小田原包囲軍から出撃した部隊が、南関東から北条氏支城を攻撃していった
海上封鎖
九鬼義孝や長宗我部元親ら、一万4000人の水軍が海上を封鎖した

石垣山・一夜城が北条氏の戦意を奪う

最後まで秀吉に抵抗した北条氏

先の戦いで四国九州までを平定し、全国統一目前に迫った秀吉であったが、依然として従わない大名がいた。
関東・小田原城を拠点とする北条氏である。
(鎌倉幕府の執権をつとめた北条氏とを区別する為に「後北条氏」とも呼ばれる)
1590年、秀吉の出した「惣無事令(戦闘停止令)」に従おうとしない北条氏に対して、秀吉は停戦命令違反を口実に攻撃を開始する。

14万もの大軍が小田原城を包囲

2月、徳川家康が駿府城から出陣する。
この時期、家康は北条氏と内通していたが、家康の裏切りを警戒した秀吉が、牽制の為に敢えて家康に“先陣”を努めさせたとみられる。
秀吉本隊も傘下の諸大名を従えて小田原へ侵攻する。
海上からは毛利輝元九鬼義孝などの水軍が小田原城を取り囲む。
その数、地上海上を合わせて約14万人ともいわれている。

『新撰太閤記 小田原征伐』歌川豊宣

『新撰太閤記 小田原征伐』歌川豊宣
石垣山に意見を交わす秀吉と家康

難攻不落の名城・小田原城

小田原城は上杉謙信武田信玄でさえ落とす事が出来なかった名城であった。
北条氏はこの戦いの為に籠城に耐えられるよう城に手を加え、兵糧を貯め込んでいた。
小田原城はもともと城郭内に田や川、町までを備えており、そもそも兵糧攻めが不可能と思える程に巨大だったのだ。

まず、北条氏を“城”に閉じ込める

秀吉は小田原城に対して、数に物を言わせて一気に攻め込んでも、到底攻め落とす事が出来ないと考えていた。
そこで秀吉は、まず小田原城の支城を次々と落として、北条氏を完全に小田原城内に封じ込めた。
確実に小田原城だけを孤立させた訳だが、ここまでは“よくある”戦術であった。

秀吉の関東の地に“居座り続ける”戦略

ここで、秀吉は奇策を繰り出す。
わずか80日程で、小田原城を見下ろせる石垣山に城を築いたのだ。
恐らく秀吉は“北条氏を城に閉じ込め無視”する事で“先に関東の地を治めてしまう”という「超・長期戦略」に打って出たのである。
一見、突拍子もない話に思えるが、石垣山城は急造とは思えない確りとした城郭で、本丸には天守台まで備えていたのだ(天守の存否は不明)。
北条氏以外、ほぼ日本中の全ての大名らが秀吉に従っているからこそ可能な戦術であった。
関白という“天皇に近い地位”と圧倒的な武力すら持ち合わせている「秀吉に敵う者などいない」という“魅せる”戦いだったのだ。
秀吉は石垣山城に淀殿や各大名やその正室らを呼び寄せて、能楽や茶湯を楽しんだともいわれる。

小田原城と石垣山城の位置

小田原城と石垣山城の位置

“一夜城”出現により、北条氏が降伏

秀吉が築いた石垣山城だが、別名「一夜城」とも呼ばれている。
実際には二カ月弱で建造された城ではあるが、秀吉は城の完成と同時に「城を隠していた木々を切り倒す」事で、あたかも一夜にして城が現れた様に見せ掛けたのだ。
この、突然の城の出現に衝撃を受けた小田原城の兵たちは戦意を喪失してしまったという。
そして、7月5日、北条氏直は小田原城を出て降伏の意思を示す。
ここに、100年間5代続いた北条氏は滅びた。

伊達政宗の臣従

小田原攻囲中である1590年5月、奥州の大名であった伊達政宗が秀吉の下を訪れている。
小田原攻めが始まる直前まで政宗は、秀吉に臣従するか否かを迷っていたという。
しかし、もはや天下人となった秀吉に勝つ事などは出来ないと悟った政宗は、切腹覚悟で白装束を身にまとい、秀吉に許しを求めたのだ。
結果として政宗は許され、伊達家の本領72万石を安堵した。
この政宗の思わぬ降伏も、北条氏側の士気を下げたと思われる。

北条氏滅亡の後、家康が関東へ移る

降伏した氏直は自身が切腹する事により将兵の助命を請うが、秀吉は氏直の潔い申出と、家康の婿であった事もあり助命される。
(しかし、前当主である氏政とその重臣たちは開戦の責により切腹)
北条氏の旧領は、ほぼそのまま家康にあてがわれる事となるが、家康は小田原ではなく江戸へと入る。
北条氏の滅亡と伊逹氏の臣従により、秀吉の天下統一は果たされた。


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