伊達政宗

独眼竜 伊達政宗

伊達政宗

遅れて生まれた名将

伊達政宗(1567〜1636年)は安土桃山時代から江戸時代に掛けて活躍した戦国武将・仙台藩の藩祖。
戦国時代の末期に出生した事もあり、遅れて生まれた名将などと呼ばれる。
若くして、武力によって周辺勢力を撃破して領地を奪う事で、東北地方で自身の勢力を広げる事に成功したが、豊臣秀吉によって領地を没収されてしまい、岩手山城に移されてしまった。
関ヶ原の戦いで東軍側についており、戦いの後、得が家康によって仙台周辺62万石を安堵された。

若くして東北最大勢力に

伊達政宗は、18歳のときに父親である伊達輝宗(だててるむね)より家督を受け継いだ
政宗が家督相続した後、大内氏を攻めた小手森城の戦いでは、自ら最前線に立ち、城へ総攻撃をかけた。
鉄砲を8000丁も撃たせる激しい攻撃で一日により落城させた。
そして政宗は、城主である「菊池顕綱(きくちあきつな)」だけではなく、城内に居た女性や子供までも撫で斬りにして殺害したといわれ、伊達家の新当主として、容赦のない戦いを行ったのだ。
政宗は、天然痘により幼いころに片目を失明していた政宗は独眼竜と恐れられ、5年ほどで東北最大の勢力にまで上り詰めたのであった。

豊臣秀吉によって領地を没収される

政宗が東北で領地を獲得している間、既に戦国時代は終焉に近づいていた。
日本の中央では豊臣秀吉が政治に実権を握っており、武力に物を言わせて領地を獲得するのは無理があったのだ。
秀吉は、全国の大名同士の争いを禁じる惣無事令(そうぶじれい)」を発布する。
政宗はこの惣無事令を中央だけの話で、自分のような田舎侍には関係ないと高を括ったのか、秀吉の命令を無視してしまう。
そして、同じく惣無事令に違反した関東の北条氏は攻め滅ぼされ、政宗は「摺上原の戦い(すりあげはらのたたかい)」で獲得した会津などの領地は没収されてしまう。
さらに、東北で起きた一揆の扇動を行ったと疑われてしまい、領国の転封まで命じれれてしまうのだった。

領地の回復は果たせず

政宗の領地の石高だが、東北最大の勢力を誇っていた頃はおよそ150万石を領していた。
しかし、秀吉により領国減封を受けて事で、56万石程にまで減ってしまったのだった。
政宗は、領地の回復をまだ諦めてはいなかったが、秀吉の没後にそのチャンスが訪れたのだった。
徳川家康と石田三成による関ヶ原の戦いである。
政宗はこの戦いでは家康側に付き、東軍側として上杉家と戦った。
一時、政宗は上杉家によって劣勢に追い込まれるも、関ヶ原の戦いに東軍が勝利した事で、上杉家を降伏させることに成功したのだった。
東軍の勝利に貢献した事で、領地の回復を期待した政宗だったが、実は政宗はこの戦いの中で一揆を扇動しており、この事が露見した事で家康の不信を招く結果となってしまうのだった。
結果、恩賞はほとんど得られず、政宗の領地は62万石にとどまる事となった。

稲作の発展に貢献

1603年に家康が征夷大将軍となり、徳川政権が安定してからの政宗は、幕政に参与する事は敵わなかった為、領国経営に力を注ぐのだった。
特に稲作の発展に力を入れており、河川の改修や治水工事、開墾、収穫した米の集積などのあらゆる手を施した。
さらに、江戸への輸送など積極的に行う事で、日本で有数の米どころとして、後の東北地方の食糧事情に大きく貢献したのであった。
民政に対しても自ら細かく指示を入れたといわれ、城下にタラが出回らなければ「漁師に安心して出荷するように、念を入れて申し付けよ」と家臣に命じた手紙が残っている。



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