秀吉の九州平定

秀吉の九州平定

九州平定は、天正14年(1586年)7月から翌年4月にかけて行われた、羽柴(豊臣)秀吉と島津氏など、九州諸将との戦い。
島津氏の降伏によって、豊臣秀吉の九州平定は成功に終わった。
秀吉の「九州攻め」「島津攻め」「九州の役」「九州征伐」などとも呼ばれる。

九州攻め略歴

1586年12月12日 戸次川の戦い
島津義久軍が、豊臣軍(長宗我部元親・仙石秀久ら)を破る
1587年3月28日
秀吉が小倉城に到着
1587年4月3日
秋月種実が秀吉軍に降伏
1587年4月6日 高城の戦い
秀長軍が耳川を渡り、高城を包囲
1587年4月17日 根城坂の戦い
島津軍が2万の軍勢で秀長軍に夜襲を掛けるが敗北
1587年4月21日
島津義久が秀長に和睦を申し入れる
1587年4月27日
秀吉が海路で出水に入る
1587年5月8日
義久が泰平寺で秀吉に降伏

島津の降伏で九州が平定

島津の九州統一に秀吉が“待った”

耳川の戦いで大友宗麟を下して日向を手に入れ、沖田畷の戦い龍造寺を破り、さらに大友氏の重鎮・立花道雪までも倒した薩摩の島津義久は、九州統一まであと一歩のところまで来ていた。
その総仕上げとして豊前豊後(福岡県・大分県)を支配する大友宗麟への攻撃を開始。
滅亡の危機が迫っていた宗麟は、豊臣秀吉へ助けを求めていた。
これに応えて秀吉は義久に対して私闘を禁止する「惣無事令」を出す。
しかし、義久はこれを無視して戦いを続けた。

戦上手の島津に苦戦する豊臣軍

1586年、秀吉は大友軍に加勢させる為、仙石秀久長宗我部元親らを派遣する。
しかし功を急いだ秀久の軍勢は、戸次川の戦いで一旦兵を退いた引かせる義久の戦術にハメられ、豊臣軍は元親の嫡男・信親が討死するなどの大敗北を喫してしまう。

秀吉自ら九州へ出陣

1587年2月、秀吉の弟・秀長が、3月には秀吉自らが大軍を率いて九州に入る。
秀長は九州の東側から、秀吉は西側から島津軍を同時に攻め始めた。
一説には20万人とも云われる豊臣の大軍を相手にする事は出来ず、さすがの島津軍も九州北部からの撤退を余儀なくされた。

高城の戦い

豊後(九州東端)から日向(宮崎)に進撃した秀長軍は鷹匠を包囲した後、根城坂の戦いで島津軍を撃破。
さらに高城に総攻撃を仕掛ける。
秀長軍は高城を包囲、望楼を建てて鉄砲や火縄で攻撃を加えながら、何重にも囲って兵糧攻めにする。
また、都於郡城からの島津援軍に備えて、高城の南に位置する根城坂に陣地を構築した。
高城は北東南側を絶壁で囲まれた天然の要害であったが、豊臣軍の攻撃の前に落城した。

豊前の戦い

秀吉は九州の筑前へ入ると、筑前・古処山城と豊前・岩石城を攻める。
秀吉は豊臣秀勝を大将に命じて岩石城を攻撃させ、わずか一日で攻略した。
岩石城の早い陥落を目にし、古処山城の秋月種実は秀吉には勝ち目がないと、すぐに降伏。
岩石城が1日で、秋月種実が3日で降伏した事は島津方の武将たちに大変な衝撃を与え、島津方の在地勢力は戦わずして続々と秀吉に臣従した。

薩摩の戦い

秀吉は薩摩の浄土真宗勢力までも利用しており、島津方の予想を上回る速さで秀吉が薩摩国内に進軍、島津側の武将らが次々と降伏した。
平佐城の戦いでは、城内の女・子供たちも戦いに協力しており、双方、相当数の犠牲者を出すが、これが島津方の最後の抵抗となった。

島津が降伏する

この豊臣軍の予想以上に早い進撃に、義久は薩摩を守るように方針を転換する。
そして5月、義久は剃髪して秀吉に降伏を申し出ている。

戦後処理・九州国分

九州で秀吉の影響力が拡大

義久が秀吉に泰平寺で拝謁した後、泰平寺から北に向かった秀吉は、筑前筥崎(福岡)の筥崎八幡宮で九州国分令を発した。
豊臣軍の武将らは九州より退陣する。
小早川隆景には筑前・筑後・肥前の約37万石、黒田孝高には豊前国の約12万5000石ら与えられており、九州北部には秀吉恩顧の大名らが配置された。
島津氏は、九州において新たに獲得した地域の大部分を没収されたが、薩摩・大隅の2国に日向の諸県郡が安堵されている。
この大名の配置換えによって、九州における秀吉の統治がほぼ完了した。
博多は秀吉によって復興に着手・直轄化を進められる。

秀吉は関東や琉球、大陸へ目を向け始める

秀吉は西国平定を果たし、朝鮮や琉球に対し服属を求めた接触を始める。
また、次の目標を東国平定に定め、関東の北条氏、奥州の伊達氏へと矛先を移した。

九州の有様を見た秀吉がバテレン追放令を出す

また、秀吉はキリスト教徒によってポルトガル領のようになっていた肥前長崎港(長崎県長崎市)を視察指せている。
6月19日、博多でバテレン追放令を出し、翌20日にはガスパール・コエリョにそれを通知してキリスト教制禁をおこなった 。


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