光秀の幕臣時代

室町幕府に仕えた光秀

政務や戦など、広く仕事を行う

義昭・信長と共に入京を果たし、幕臣・将軍義昭の家臣となった明智光秀(?〜1582)。
光秀は幕府の京都支配の担当者として、政務に就く事となったが、次第に戦にも参加していく事となる。
幕臣でありながら、織田家にも従属する事となった光秀は、比叡山焼き討ちなどにも関与する。

幕府に仕え、京都支配を担当

足利義昭(1539〜97)が室町幕府の15代将軍に就任した翌年の永禄12年(1569)、光秀は京都支配の担当者に任命され、織田信長(1534〜82)の家臣と共に文書の発給を開始する。
信長側の担当者は村井貞勝(?〜1582)・木下秀吉(後の豊臣秀吉:1537〜98)・丹羽長秀(1535〜85)・中川重政らで、光秀は彼らと協力しながら、信長に支えられた義昭の政権(幕府)を支えていく事になる。

都の近隣では内紛が起こっていた

当時の義昭・信長にとって解決すべき課題は、京都の北二ある若狭国(福井県西部)の守護・武田氏の内紛であった。
若狭武田氏は相次ぐ内部対立で力を失い、隣国の越前(福井県東部)から介入した朝倉氏を頼る者と、義昭・信長を頼る者の間で、重臣たちが紛争を起こしていた。

若狭武田の内紛と織田の敦賀侵攻

信長と朝倉義景が対立

光秀は義昭・信長の命令を受けて、味方に付いた若狭武田氏の「三十六人衆」に対し、武田元明(?〜1582)への忠節を誓うよう指示する。
しかし、信長と越前・朝倉義景(1533〜73)の対立は決定的な状況となっていく。
そこで信長は、越前の朝倉氏を討伐する為、元亀元年(1570)4月に鶴我(福井県敦賀市)へと侵攻を始める。

浅井謀反 金ヶ崎の戦い

朝倉を討つべく信長の敦賀侵攻に参陣した光秀であったが、北上の途中で思わぬ出来事に遭遇する。
信長と姻戚関係にあった義理の弟である、近江国小谷城(滋賀県長浜市)の浅井長政(1545〜73)が朝倉方に寝返り、謀反を起こしたのだ。
長政謀反の報せを聞いた信長は窮地を脱するため、琵琶湖の西岸〜京都へと退却。
光秀は木下秀吉と共に、最後尾で敵の攻撃を防ぐ「殿」を務め、味方を無事に退却させる事に成功する。

光秀の役割が政務より戦へ移る

無事京都にたどり着いた信長は、態勢を整えた後、光秀と丹羽長秀を若狭に派遣する。
光秀は同年5月、義昭の側近だった曾我助乗(生没年不詳)に出陣を伝え、業務の引き継ぎを行った。
光秀と長秀は、若狭で朝倉方の武藤友益(生没年不詳)から人質を捕り、城館を破壊して引き上げた。

浅井・朝倉討伐と比叡山焼き討ち

反信長勢力による信長包囲網

以後、義昭と信長を取り巻く状況は厳しさを増していく。 元亀元年(1570)の8月から9月に掛けて、三好三人衆(三好長逸・三好宗渭・岩成友通)や大坂(大阪市中央区)の本願寺(現・大阪城)が反信長を掲げ相次いで蜂起。
浅井・朝倉両氏は比叡山(京都市左京区・滋賀県大津市)と手を結んで、近江国宇佐山城(滋賀県大津市)に攻め寄せた。
宇佐山城は信長の本拠地であった美濃(岐阜県南部)と京都を結ぶ重要な拠点で、織田家臣の森可成(1523〜70)が籠っていたが、可成は9月に坂本(滋賀県大津市)で討死してしまう。

光秀が宇佐山城を任され城主に

この事態を受け信長は坂本に陣を構え、光秀は比叡山を牽制するため勝軍山城(京都市左京区)に入った。
その後は信長と朝倉・浅井両氏の睨み合いが続いたが、12月に義昭と朝廷の仲裁が入り、信長と朝倉・浅井は和睦する。
光秀は戦死した森可成の後任として宇佐山城へ移り、引き続き朝倉・浅井両氏と比叡山の監視役を担う事となった。

比叡山焼き討ち

だが、翌年の元亀2年(1571)8月には信長と朝倉・浅井両氏の対立が再び起こり、信長が近江に出陣する事となる。
そして9月12日には、織田軍による比叡山の焼き討ちが実行された。
信長は比叡山に対し、「朝倉・浅井軍を追い出してこちらの味方に付くか、中立の立場を取れば攻撃しない」と通告していたが、比叡山方は拒否。
比叡山は朝倉・浅井軍を山中に匿ったため、これを敵対行為と判断した信長は、遂に比叡山への攻撃命令を下す。
僧侶や女性、子供までを含めた山中の人々が虐殺されたと云われる。

比叡山焼き討ちにおける光秀

冷酷な合理主義者だった光秀

比叡山焼き討ちは日本史で稀にみる残虐な事件であるが、光秀はこれに積極的に関与していたという。
宇佐山城で比叡山と対峙していた光秀は、近江国雄琴(滋賀県大津市)の和田氏など、近隣の有力者を味方につける活動を行っていた。
そのような中で、光秀は和田氏に対し、「敵方の村を撫で斬りにしてしまえば、我々の思い通りになるでしょう」という内容の書状を送っている。
また、信長に敵対する志村城(滋賀県東近江市)などを織田軍が攻撃した際の状況として、「信長様が干殺しをなされた」と書き送っているように、光秀も信長の比叡山攻めに積極的に関わっていた事が分るのだ。

幕臣でありながら、信長から領地を与えられる

光秀は決して信長に振り回れていたわけではなく、目の前の状況に対して冷酷な態度をとり、自分の役割を果たしていた。
比叡山の焼き討ちを実行した信長は、近江国滋(志)賀郡(滋賀県大津市)を光秀に与え、比叡山領の管理を任せた。
この頃の光秀は義昭に仕える立場だったが、近江で乃戦いにおける光秀の功績を、信長は高く評価したようだ。


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