弥生時代の食事

弥生時代の食事

弥生時代の食事・主食

弥生時代の日本では、稲作が本格的に始まった。
米をはじめとする穀物を主要な食料の一つとする食生活も開始された事が推測される。
また、各地の遺跡から出土する炭化穀物などにより、弥生時代には米の他に、小麦(アワ)、(ヒエ)、(キビ)、小豆などの雑穀が栽培されていたことが明らになっている。
日本古来の歴史書である「古事記」「日本書紀」では、スサノオと呼ばれる神様によって「五穀」がもたらされたと記されており、出土遺跡と、歴史書に記されている主食が大筋一致しているのだ。

弥生時代の秋の食事

復元された弥生時代(登呂)の秋の食事
煮炊きした米や雑炊と雑穀と野菜や魚を弥生土器に盛り付けて食べた。
写真・静岡市立登呂博物館

主食は玄米を蒸したモノ

弥生時代後期はすでに本格的な農耕がおこなわれていたが、コメの収穫量はまだそれほど多くなかったため、主食としては玄米を蒸したものをとっていたとされる。

副食豊で栄養バランスを整える

これに副食として、肉や魚介・果実などをとっていたといわれる。
植物性食料を例にすると、縄文時代からクリ・クルミ・トチ・ドングリなどの採取に加えて、エゴマやリヨクトウの栽培やヤマイモなどの増殖・管理がみられ、これらは弥生時代にはいっそう進んだと考えられる。イノシシやニホンジカの肉も食膳にそえられたであろうし、弥生時代にはブタの飼育もおこなわれていたことがわかっている。

再現された卑弥呼の食事。(大阪府立弥生文化博物館蔵)

再現された卑弥呼の食事
玄米、鯛の塩焼き、ハマグリとイイダコの吸い物、干しアワビなど(大阪府立弥生文化博物館蔵)

海鮮雑炊(魚雑炊)

唐古・鍵遺跡(奈良県田原本町)の北約600メートルにある清水風遺跡(奈良県田原本町・天理市)では、米や魚介類などで「魚雑炊」を作っていたことが分かった。(大量に出土した土器の科学分析より判明)
これは2020年(令和2年)10月に発表されたもので、土器に付着した炭化物を調べたところ、米や魚介類、キビなどを一緒に煮込んだ可能性があることが判明した。
農耕の普及、土器の進化などにより、食のバリエーションは縄文時代に比べて格段に増えていったのである。

「焦げ」が付着した土器(清水風遺跡)

「焦げ」が付着した土器
土器に付着した炭化物から、米と陸獣や海産魚類を一緒に煮込んだ雑炊を作っていたことがわかった。(田原町教育委員会所蔵)

日本における五穀

古事記
稲・麦・粟・大豆・小豆
日本書紀
稲・麦・粟・稗・豆
稲

魏志倭人伝における当時の日本人の食生活

中国三国時代の歴史書である「魏志倭人伝」には当時の倭人(日本人)の食生活について、次のように記してある。

  • 倭の地は暖かく、冬も夏も生野菜を食べる
  • 飲食には高坏を用い、手づかみで食べる
  • 人々は生来酒が好きである

上記が、魏志倭人伝に記されている、当時の日本人の食生活の様子であるが、歴史書に嘘は付き物である為、全てを信用する訳にいかない。
ただし、魏志倭人伝における記述は当時の「対馬」や「松浦半島」等における人々の生活・様子が記されており、これらの記述は地理的条件から考えて、非常に信憑性が高いのも事実であり、大筋は信用していいと思われる。

調理法と食べ方

弥生時代の人々が使用していたとみられる、多くの土器が発掘されており、それらの土器には食事に使われたと考えられる土器も見つかっている。
煮炊きに使われたであろう甕形土器に残る炭化物などの状態から、穀物は水を加え炊いていたと事が分かっている。
倭人伝には「手づかみで食べる」と記されているが、鳥取県の青谷上寺地遺跡からは木製のスプーンが数多く出土しており、手使い以外にも、汁物などではスプーンを使って食事を取っていた事が分かっている。
弥生時代の人々は、主として米や雑穀を炊いて雑炊のようにして食べていたのだろう。

遺跡から分かる色んな調理法

各地の遺跡から甑(こしき)が出土しており、炊くとは別に蒸す調理法もあったことが推定される。
こうした発掘調査と魏志倭人伝の記述を合わせて見ると、また新たな側面が見えてくる。
普段は米と雑穀を混ぜた雑炊のような物を食し、祭りなどの祝いの日には蒸した米を高坏にもって食べていた事が憶測出来るのだ。
現在でも、祝い事があった時にはもち米を加えた米を蒸しておこわや赤飯を食べる風習があり、こうした風習は弥生時代から存在していたのかもしれない。

ドングリも食べられていた

弥生時代の遺跡からは、縄文時代の主食であったドングリなどの堅果類も各地の遺跡から出土しており、
縄文以来の伝統食であるドングリダンゴなども食べられていたようだ。

ドングリ

ドングリ

栗

魚・動物などの食生活

漁業

魏志倭人伝による記述と発掘調査から、弥生時代には漁撈も引き続き盛んに行われていた事が分かっている。
沿岸地域ではスズキ、クロダイ、マダイ、フグ、サメ、ニシンなどの海魚が、内陸部ではアユ、ウグイ、フナなどが捕られていたようだ。
その他、マガキ、ウミニナ、シオフキ、サルボウ、ヤマトシジミ、タニシ、カワニナなどの貝類も食べられていた。
また、瀬戸内地方の弥生時代の遺跡からはタコ壺が出土しており、タコ壺を使ったタコ漁が始まったと考えられる。
さらに、弥生時代に栄えた水田は、淡水魚の産卵場所ともなる。
産卵のため水田に入ってきたコイ、ナマズなどをヤスで突いて捕っていたと考えられる。

『出雲国風土記』にみる魚介類

魚貝も種類が豊富であり、のちの8世紀初めの成立である『出雲国風土記』には、マグロ・フグ・サメ・イカタコ・アワビやサザエ・ハマグリ・ウニ・カキ・ノリ・テングサなどが記載されている。

弥生・弥生以前の漁業の様子の復元模型

弥生・弥生以前の漁業の様子の復元模型

狩猟

狩猟では、鹿を猪を中心に、兎やタヌキ、さらにはカモなどの鳥類も捕っていた。
鹿や猪狩りは、食料を得るためだけではなく、田畑を荒らす害獣を駆除する目的もあったようだ。
また、弥生時代には野生の猪ではなく、大陸から伝わって来た豚を飼育していたのだという学説もある。

アケビ

アケビ

日本にも犬食があった

弥生時代から始まった食の習慣として、大陸や朝鮮半島由来の「犬食」もあった。
縄文時代の犬は狩猟の大事なパートナーで、死ぬと丁重に葬られた。
しかし、弥生時代に入ると犬の解体遺棄された骨格の出土が増えていることから、犬の肉を食べる習慣があったとみられる。
675年、天武天皇によって一時的に肉食禁止令が出されているが、そのなかに犬も含まれている。


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