高橋是清

高橋是清

高橋是清(1854〜1936)は昭和恐慌で辣腕を振るった政治家。
経済の専門教育を受けた事がなく、大蔵官僚の経験もない歴史上、異色の政治家だった。
財政家として知られているため総理大臣としてよりも大蔵大臣としての評価の方が高い。
愛称は「ダルマさん」である。
蔵相を生涯で7度も務め、対外戦争の戦費不足、昭和恐慌といった日本経済の危機を、何度も乗り越えた。
赤字予算是正の為に軍費抑制を図り、二・二六事件の凶弾に倒れた。

高橋是清

高橋是清

危機を何度も乗り切った優れた経済センス

独学で優れた結果を出した努力の人

高橋是清は、正規の経済教育を受けた事がなかった。
しかし、恐慌などにより日本経済が危機に直面した際に、マクロ経済の動きを読み切った政策を実行し、これを乗り切った。
その先進性から、「日本のケインズ」とも評されている。

経済危機で力を発揮

例えば、株価暴落から始まった第一次世界大戦の戦後恐慌では、大規模な財政救援措置で産業を振るわせ、株価を回復させた。
また、関東大震災で手形の支払いが滞って金融恐慌が起きると、銀行を2日間自主休業させて、その間に紙幣を大量に印刷して銀行の窓口に積み上げ、取り付き騒ぎを沈静化した。
続く3週間のモラトリアム(支払い猶予)の間に法定を超える融資を銀行に行い、危機を乗り切った。

さらに、世界恐慌の影響で日本が新たな恐慌(昭和恐慌)に陥ると、高橋はその原因を金輸出解禁による金の大量流出と輸入超過が重なった為とみる。
そして金輸出の再禁止と同時に兌換制度(紙幣と金との交換を保証する、つまり手持ちの金の分しか紙幣が発行できない)を停止させ、管理通貨制度へ移行させた。

高橋は、為替を円安に誘導して輸出産業を助けた。
さらに、公共事業や軍備予算で国内の経済振興を図るという、ケインズ政策の先駆けともいえる積極財政政策を執り、日本経済を世界に先駆けて恐慌だら脱出させた。

軍備拡大の阻止に走る

しかし、日本政府はこの時期、緊迫する中国情勢に合わせて軍備を膨張させており、景気対策の為の土木工事である時局匡救事業と併せて巨額の歳出を賄うには、多額の赤字公債が必要となった。
高橋は、累計100億円に上る赤字公債で国家財政が破綻するのを阻止しようと、公債の漸滅方針を執り、軍備の拡大を抑制しようとした。

二・二六事件で凶弾に倒れる

これが軍部を激怒させる事となり、二・二六事件で高橋は暗殺されてしまった(享年83歳)。
その後の日本は、歯止めのない軍備増強へ向かう事となった。


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