武田信玄の信濃攻略

武田信玄の信濃攻略

「甲斐の虎」と呼ばれた武田晴信(信玄)は父・信虎を追放した後、家督を継ぎ、武田家の勢力拡大を図る。
そして、板垣信方や馬場信治など優秀な家臣団を率いて信濃攻略に着手する。

父・信虎を追放して家督を継ぐ

武田家は甲斐源氏の流れを汲む武田家の名門で、甲斐守護職を代々務めてきた。
戦国期に入ると、一族の内紛や地元国人の専横、他国からの侵略に悩まされたが、これらを抑えて甲斐をほぼ統一したのが、武田家18代当主の信虎だった。
甲斐統一後は隣国に度々出兵するが、粗暴な振る舞いが目立っていた。
そこで板垣信方や甘利虎奏といった重臣の後押しを受けた長男の晴信(のちの信玄)が、父・信虎を駿河へ追放する。

手始めに諏訪領を併合

こうして21歳で武田家の家督を継いだ晴信は、信濃攻略を本格化させる。
最初の標的は上原城主の諏訪頼重であった。
晴信にとっては妹婿に当たる人物だったが、容赦はなかった。
調略を仕掛けて諏訪領に攻め入り、これを傘下に収めた。

村上義清との戦い

晴信は諏訪を攻略した後、信濃平定に取り組むが、村上義清に苦戦を強いられる事となる。
天文22年(1553)に義清を信濃から追放する事に成功、信濃をほぼ制圧する。
以降、晴信は越後の上杉謙信との戦いに突入していく。

領土拡大と領国経営

諏訪を手に入れた後、晴信は長窪城の大井貞隆、高遠城の高遠頼継、志賀城の笠原清繁を立て続けに滅ぼした。
そして信濃侵攻に力を入れる一方で、晴信は領国経営でも手腕を発揮している。
当時、甲斐では洪水が頻発していたが、晴信は「信玄堤」と呼ばれる堤防を築いて洪水の発生を防いだ。
これにより年貢収入が安定し、新田開発も盛んに行われる様になっていく。
そこで得た莫大な富を軍事費や治水事業、外交政策などに活用する。

信玄堤『山川 詳説日本史図録』より引用

【信玄堤】甲斐国西部の釜無川と御勅使川が合流する付近ではたびたび洪水が発生し大きな被害を出していた。領国の安定経営をはかる武田信玄は、御勅使川の流路を北に移し、釜無川左岸の竜王高岩にぶつけて水勢を弱めた。また洪水多発部分の堤防は直線状にはせず、聖牛(せいぎゅう)や蛇篭(じゃかご)という技法を用いて、斜めに突き出した亀甲出しを多数設けた。これは堤防の決壊を避けるためで、川の流れに逆らわずに、水流を弱めることを主目的としていた。(『山川 詳説日本史図録』より引用)

甲州法度乃次第と信玄升

更に分国法『甲州法度乃次第(こうしゅうはっとのしだい)』を制定した他、「信玄升」を作って升の規格化を行った。
これにより米の計量が簡単になり、領内からの正確な年貢を徴収する事が可能となり、領国内の商業も活発になった。

上田原の戦いで人生初の敗北を喫する

信濃の豪族を次々と傘下に収めた晴信だったが、その前に立ちはだかったのが北信濃の村上義清であった。
天文17年(1548)、両軍は上田原城で激突したが、不慣れな土地での戦いに武田軍は苦戦する。
一方の村上軍は土地を有効活用して巧みに攻め、武田軍を敗走させた。
晴信にとって、これが生涯初の敗戦であった。

信濃をほぼ制圧

2年後、晴信は再び村上軍に敗れた(砥石崩れ)が、その後は真田幸隆(真田幸村の祖父)の活躍もあって巻き返し、天文22年(1553)に村上義清の居城である葛尾城を攻略した。
そして木曽義康も降伏させ、晴信は信濃をほぼ制圧する。


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