隋帝国

隋 中国再統一と滅亡

273年ぶりに中国を統一した隋帝国

6世紀末、長い分裂時代に終止符を打ち、中華帝国を再建した隋。
中央集権体制を強化し、長く続くと思われた隋だったが、人民の酷使などに起因する反乱により、40年足らずであえなく滅び去る。
しかし、日本は隋との国交・貿易を通じ、多くの先進文化・国家制度を導入する事が出来たのである。
>> 隋朝の年表

隋の国家制度

581年、華北(かほく)の北周(ほくしゅう)の外戚であった楊堅(ようけん)は、皇帝を譲られ、文帝となって隋を建国する。
589年、隋は南朝の陳(ちん)を滅ぼし、晋(しん)の滅亡以来273年ぶりに中国統一を果たした。
文帝は、北朝の支配体制にならい、均田制(きんでんせい)、府兵制(ふへいせい:徴兵制の事)を取り入れるとともに、律令(律は刑法、令は行政法)を定めた。
さらに、租庸調(そようちょう)の税制(租は穀物、庸は労役、調は絹・綿など)を導入する事で皇帝の農民支配を強め、中央集権体制を強化した。

科挙という学科試験を導入

また、官吏登用法として、その後長らく中華王朝で引き継がれる事になる科挙(かきょ(隋では選挙と呼ばれた))を創設した。
科挙は、門閥貴族を生む温床になっていたそれまでの九品中正法を改め、学科試験によって官吏を採用するものであった。
科挙を採用する事で、血筋よりも学力を重視し、既存の権力者たちを実力者らが蹴落とす事が可能になったのだ。
これは、皇帝による中央主権体制を強固にする狙いがあった。
この制度は、清朝末期の1905年に廃止されるまで、実に1300年余りに渡って続けられる事になる。
なお、日本でも中国を参考に、一部科挙が採用されるが、あまり普及しなかったという。
平安貴族らが、学力よりも、血筋を重視し、世襲制に固執した為だと考えられる。

民衆に対し、過度な負担を強いた隋

文帝の次子である広(こう)は、兄を失脚させて皇太子となり、父を殺害して帝位についたといわれる。
これが煬帝(ようだい)である。
煬帝は文帝以来の大運河を完成させ、これにより、江南(こうなん)の物資の華北への流通が容易になり、南北の統合が進んだ。

煬帝は非常に金遣いが荒かった

しかし、この一大土木工事では100万人を超す民衆が動員され、過重な負担が強いられただけ。
さらに、煬帝はこの運河をしばしば遊びに使い、離宮へ行く際には、金銀で飾り立てた巨大な流の船など、数千隻もの船を農民に曳かせた。
また、万里の長城の改修・王宮や離宮の造営などにも民衆が動員された。

聖徳太子の遣隋使

一方、この頃には、大和朝廷により国家統一をほぼ成し遂げた日本の聖徳太子が、煬帝の下へ遣隋使を派遣して、対等な国交を求めている。
一度目の遣隋使は煬帝への謁見叶わずに帰国させられるが、二度目の遣隋使では、小野妹子に国書を持たせて謁見が叶っており、無事国交を樹立する事が出来た。
日本にとっては、隋こそが外交のデビューであった。

なぜ、隋は滅んだのか?

文帝は北方の遊牧民族である突厥(とっけつ)を討ち、東西に分裂させる事に成功したが、煬帝は高句麗が突厥と結ぶ事を恐れ、3度にわたる高句麗遠征を敢行した。
しかし、これが失敗に終わると、皇帝の権威は失墜し、各地で農民の反乱が起こる。
煬帝による人民の酷使に、飢饉や水害が加わった事によるものだった。
200もの集団が蜂起し、国内最大の穀物倉庫がある洛陽(らくよう)を占領してしまう。
煬帝は数十万の軍を送り鎮圧を図ったが、反乱軍の勢いはもはや止められなかった。
遂に煬帝は江都(こうと)の離宮で臣下によって殺害され、隋帝国は僅か2代40年足らずで滅亡した。

隋朝の年表

西暦出来事
541年 楊堅(文帝)生まれる
573年 楊堅の長女、北周の皇太子(宣帝)妃となる
580年 楊堅、北周の左大丞相となる
581年 楊堅、北周の禅譲を受け、隋を建国
開皇律を公布する。
582年 突厥(とっけつ)が隋に入寇
583年 大興城(唐の長安城)完成
584年 広通渠(こうつうきょ)を開く
587年 山陽涜(さんようとく)完成
後梁を滅ぼす
589年 陳を滅ぼし中国統一を達成
三長制を廃して隣保制を始める
593年 仁寿宮が建てられる(〜595年)
595年 全国民間の武器私蔵を禁じる
州の郷官・九品中正の廃止
596年 光化公主が吐谷渾(とよくこん)に嫁ぐ
598年 高句麗討伐失敗
洛陽城(東京)を造営
600年 倭、遣隋使を派遣
602年 入寇した東突厥を破る
603年 東突厥の啓民可汗が降服
604年 煬帝(ようだい)、文帝を殺して即位
605年 通済渠を開く
606年 進士科を設ける
科挙制の整備
607年 大業律公布
倭、小野妹子を隋に派遣
608年 永済渠を開く
小野妹子、隋使裴世清(はいせいせい)と帰国。妹子は後、再び隋へ使いす。
609年 吐谷渾を親征し西域交通路を確保
妹子、隋より帰国
610年 大運河完成
611年 高句麗遠征の詔を下す
612年 第一次高句麗遠征失敗
613年 第二次高句麗遠征
楊玄感の乱が起こる
614年 第三次高句麗遠征
615年 東突厥、煬帝を雁門に囲む
616年 煬帝、揚州に行く
617年 李密が挙兵、洛口倉による
李淵(唐の高祖)が挙兵、長安に入り代王侑を擁す。
618年 煬帝殺され、隋が滅亡
李淵が恭帝侑の禅譲を受け、唐を建国

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