宗教改革とプロテスタント

宗教改革で生まれたプロテスタント

16世紀、ドイツから始まった宗教改革によって新たなキリスト教であるプロテスタントが生まれた。
キリスト教の分裂を受け、西欧世界に君臨してきたローマ教皇の権威を揺さぶった。
>> 宗教改革年表

教皇への不信から生まれたプロテスタント

教会の腐敗や教皇への批判から始まった宗教改革は、教皇と皇帝の権威を揺るがし、国際政治における主権国家体制の確立を後押しする事となった。
1517年、ドイツの神学者マルティン・ルターは、サン・ピエトロ大聖堂の改修費を賄う為にローマ教皇レオ10世贖宥状(免罪符)を販売した事を批判し、95カ条の論題を発表して、「人は信仰のみによって救われる」と主張した。

教皇や皇帝に批判されるも、ルターに共感を示す人が増えていく

教皇はルターを破門し、神聖ローマ皇帝カール5世もヴォルムスの帝国議会で自説の撤回を求めたが、ルターはこれを拒否する。
ルターの説はやがて、反皇帝派の諸侯や都市の住民、農民などの支持を得た。
その後、オスマン帝国の圧迫に際して諸侯の協力を得る為、カール5世はルター派を認めたが、危機が去ると再びこれを禁じた。

プロテスタントの誕生

カール5世の行動に反対したルター派の諸侯らがこれを抗議し、プロテスタント(抗議する人)と呼ばれるようになった。
こうした対立の後、ルター派は55年のアウグスブルクの宗教和議で公認される事となった。

各地で、新たなキリスト教派閥が生まれる

この頃、スイスのジュネーブでは「キリスト教綱要」を著したカルヴァンが改革を開始していた。
彼は、人救われるか否かは神によってあらかじめ定められているという予定説を唱え、人は神の救済を信じて規律正しい生活と職業に励むべきだと説いた。
また、イギリスでは、王妃との離婚問題からヘンリー8世首長法を定め、国王を主張とするイギリス国教会を成立させた。
これに対してカトリック教会は、トリエント公会議で対生の立て直しを図り、対抗宗教改革を行った。

対抗宗教改革とは

宗教改革に対抗した、カトリック教会内部の改革。
1545年からイタリアのトリエントで公会議を開き、教会の刷新や規律の再構築を進め、教皇を頂点とするカトリックの秩序と権威を回復させた。
1534年に結成されていたイエズス会は対抗宗教改革の中心となり、厳格な規律の下で布教活動に努め、日本を含む東アジア諸国にもカトリックを広めた

宗教改革の流れ・年表

西暦出来事
1514〜17年 贖宥状販売
ローマ教皇はこれまでしばしば贖宥状(免罪符)を販売していたが、レオ10世はサン・ピエトロ大聖堂の改修の為、これを乱発する。
1517年 95カ条の論題
ルターが発表し、それが瞬く間に人々の間に広まった。
1521年 ヴォルムスの帝国議会
ルターは自説の撤回を求められるが、これを拒否する。
以後、反神聖ローマ皇帝派諸侯の支持を得た。
1522年 聖書のドイツ語訳
ザクセン選定候フリードリヒにかくまわれたルターは、それまで翻訳が禁止されていた新約聖書のドイツ語訳を完成した。
これは活版印刷によって普及した。
1534年 首長法制定
王妃との離婚をローマ教皇に反対されたイギリスのヘンリー8世は、自分を首長とするイギリス国教会を成立させ、教皇と絶縁した。
イエズス会設立
カトリック教会の刷新を唱えるロヨラやザビエルらが設立。
厳格な規律の下、世界各地で布教を進めた。
1545〜63年 トリエント公会議
カトリック教会の立て直しを図った公会議。
教皇権の至上と教義を再確認。
1555年 アウグスブルクの宗教和議
ルター派が公認され、諸侯や自由都市単位で宗派を選択する権利が認められた。

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