ルター

宗教改革者 マルティン・ルター

1517年、教会の贖宥状(しょくゆうじょう:免罪符)販売に対して「95カ条の論題」を発表。
キリスト者の自由」などの著書で信仰によってのみ救われると提唱。
カトリックと決別し、プロテスタント(新教)成立の切っ掛けを作った。

落雷の恐怖を切っ掛けに聖職者となる

宗教改革の旗手ルターは、幼少期から敬虔なカトリック信者(旧教)ではあったが、取り立てて聖職者としての道を進もうとは思っていなかった。
父のハンスも息子を法律家にしようと考えていたという。
そんなルターが聖職者への道を歩む切っ掛けとなった事件は、彼がエルフルト大学の法学部に進んだ1505年に起きる。
自宅から大学に戻る途中だったルターは突然の雷雨に襲われ、すぐ近くで落雷を経験する。
この時、彼は恐怖のあまり跪き、「聖アンナ(聖母マリアの母)よ。助けてください。私は修道士になります!」と叫んだという。
そして数日後、ルターは本当に修道院に入ってしまったのである。

カトリックと対立

その後、アウグスティヌス会修道院での修業を経てヴィッテンベルク大学の教授となったルターは、聖書研究の過程で「信仰義認節(しんこうぎにんせつ)」にたどり着く。
これは「新約聖書」の「ローマ人への手紙」にある「神の義」という言葉に基づく考えで、ルターは「人が義とされるのは(中略)信仰による」という部分から、人は信仰によってのみ救われると結論づけたのである。
一方、ルターは教職のかたわら、修道会の管区長代理となって11の修道院の責任者を任される事になったが、ここで問題が生じた。

金の力で罪が許されるという考えを否定

この頃、ローマ教皇はドイツ諸邦で盛んに贖宥状(購入すれば罪が贖われるという札)を販売しており、これによって金を払えば罪にならないという風潮が蔓延していた。
道徳上の乱れが生じるようになっていたのである。
そこでルターは「95カ条の論題」を発表するのだが、彼の第一の目的は贖宥状自体を否定する事ではなく、それがどの位の範囲と効力を持つのかを神学討論で明らかにする事で、道徳の乱れを抑える事だった。
ところが、信仰義認節が盛り込まれたこの論題は筆写されて多くの人の目に触れるようになり、やがて、金権主義に染まった教皇庁の方針に不満を抱く全ドイツの民衆に広まり、大きな反響を呼んだ。
こうして教皇庁も論題を問題視するようになったが、民衆や考えを同じくする文人らの後押しもあって、ルターは次第に主張を尖鋭化させていく。

キリスト者の自由を刊行

1519年には、ライプツィヒで行われたカトリック派神学者エックとの討論で「教皇庁も誤りを犯しうる」と指摘。
翌年には教皇から送られてきた破門勧告状を焼き捨てている。
さらに「キリスト者の自由」などを刊行したルターは、ついにカトリックの根本ともいうべき7つのサクラメント(秘蹟)のうち、洗礼と聖餐(せいさん)以外を否定するまでになったのである。


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