サクラ(桜)

サクラ(桜)の歴史

桜は日本の国花であり、日本人は古くから桜に親しんできた。
しかし、桜は日本固有のモノではない。
桜は北半球の温帯地方に広く分布しており、特に中国や朝鮮半島などのアジア地域に多くの種類が分布している植物である。
またヨーロッパにも桜の木は存在するが、日本のように美しい花を咲かせるのではなく、主にサクランボができるだけの種類だ。

桜

神が宿る神聖な木「桜」

サクラは穀物の神が宿るとも、稲作神事に関連していたともされ、農業にとり昔から非常に大切なものであった。
また、サクラの開花は、他の自然現象と並び、農業開始の指標とされた場合もあり、各地に「田植え桜」や「種まき桜」と呼ばれる木が存在した。
これはサクラの場合も多いが「桜」と名がついていてもサクラ以外の木の場合もある。
コブシの花などもサクラより若干早く咲き始め、田植えの基準とされた。

桜

「サクラ」という名前の意味

サクラの「サ」という字は「サ神」を表しているとされ、これは田の神を指している。
次に「クラ」とは、神が鎮座する「座」の事であった。
つまり、サクラの花が咲くという事は、田の神が地上から降りて来たと考え、豊穣を願って「マツリ」が催されていたようだ。
またサクラは冬の寒さが去り、田植えの時期の指標ともなっていた。

桜

「サクラ」は古事記にも登場する?

歴史上で初めて桜を思わせる記録が出てくるのは、日本最古の歴史書古事記に書かれているコノハナサクヤヒメ(木花之佐久夜毘売)という女神だ。
この女神は富士山の守護神とされ、とても美しい姿をしている半面、神としては寿命が短かったとされ、サクラを思わせる。
霞(かすみ)に乗って富士山の上空へ飛び、そこから花の種を蒔いたと記述されている。

奈良時代

奈良時代の花見は「梅」

『万葉集』には色々な植物が登場するが、サクラもその一つである。
しかし、中国文化の影響が強かった奈良時代は和歌などで単に「花」といえば梅を指していた。
万葉集においては梅の歌118首に対しサクラの歌は44首に過ぎなかった。
その後、平安時代に国風文化が育つに連れて徐々に桜の人気が高まり、「花」とは桜を指すようになる。

平安時代

平安時代になり、894年に遣唐使が廃止されると、日本人は中国文化よりも、日本古来の文化に注目し始める。
『古今和歌集(905年)』では、桜の歌が70首、梅の歌が18首と人気が逆転、そして、シックな梅の花より、雄大なサクラの美しさに魅了されるようになっていく。
記録上、日本最古の花見を行ったのは嵯峨天皇で、812年の事であった。
831年には、天皇主催の花見の宴が毎年行われるようになり、貴族の間でも花見が流行、貴族たちは積極的に庭に桜を植えるようになる。

「源氏物語」にも当時の花見の様子が「花宴の巻」として描かれており、また、同時代に書かれた日本最古の庭園書『作庭記』にも「庭には桜の木を植えるべし」という記述されている。

花見とは「桜」を守る為に行う?

宮中のサクラに魅了された藤原定家は、夜間に宮中に忍びこんで庭の桜を持ち帰り、翌朝発覚し天皇から咎めを受けた。
また、沙石集によると、一条天皇の中宮、彰子が奈良の興福寺の東円堂にあった八重桜の評判を聞き、皇居の庭に植え替えようとサクラを荷車で運び出そうとしたところ、興福寺の僧が「命にかけても運ばせぬ」と行く手をさえぎった。
彰子は、僧たちのサクラを愛でる心に感じ入って断念し、毎年春に「花の守」を遣わし、宿直をしてサクラを守るよう命じたという。

鎌倉時代

鎌倉時代に入ると、貴族階級だけだった花見が徐々に、武士や一般層にも広がっていく。
吉田兼好著の「徒然草」には「貴族は桜を上品に楽しむが、田舎者はサクラの木の下ではしゃいでいる」といった記述が見られる。
(常に戦と隣り合わせの武士にとって、寿命が短い桜は縁起が悪いとされていたともいわれる)

戦国時代以降

安土桃山時代に入ると、花見の宴の規模がさらに拡大していく。
1594年に豊臣秀吉が主宰した吉野の花見会は5日間で約5000人もの人々が楽しんだといわれている。
徳川家康や前田利家、伊達政宗といった豊臣家臣であった大名たちは、仮装までしてたという。

醍醐の花見

1598年4月20日、京都の醍醐で行われた花見では、秀吉は醍醐寺に700本の桜を植えさせ、約1300人が招待された。
日本各地から名産の食べ物が持ち寄られたが、これが「花見だんご」の始まりだ。
現代の花見を始めたのは秀吉だったのだ。
以降、京都の寺社ではサクラの木が植えられていく。

江戸時代

江戸時代に入ると、江戸幕府三代将軍・徳川家光が、上野寛永寺に奈良県吉野の桜を植え替え委し、花見を楽しんだ。
これが日本三大夜桜の1つに数えられる上野公園の始まりであった。
ただし、当時の上野寛永寺は一般人は立ち入り禁止であった。

桜

庶民に花見をもたらした八代・吉宗

「庶民が花見を楽しめる場所を作りたい」と、実際に政務を執ったが八代将軍・徳川吉宗である。
吉宗は1720年に浅草、飛鳥山などにサクラの木を上庶民が花見を楽しむ事ができる場所を提供している。
また、吉宗は花見の為に治水工事にまで乗り出したといわれる。
当時、江戸を流れる隅田川は、長雨ですぐに水かさが増し、農村部に被害を及ぼしていた。
しかし、隅田川全体に堤防を作るという事は、幕府の予算でも不可能であった。
そこで、吉宗は川沿いに桜の木を植える事を提案したという。
サクラの木を植える事で、多くの人が集まり、人々によって地面が踏み固められ、天然の堤防の役割を果たすようになったという。
実際にはサクラの木の根が、地中を這う事で、土壌が堅く豊かになったのであろう。
全国のサクラが川沿いに多いのは、こういった歴史が在ったのだ。

園芸品種の開発も盛んに

園芸品種の開発も大いに進み、さまざまな種類の花を見ることができるようになる。
江戸末期までには300を超える品種が存在するようになった。

何故、桜の家紋は少ないの?

サクラの花が散ってしまう様は、家が長続きしないという想像を抱かせたため、桜を家紋とした武家は少なく、桜は未だに時代に根付いてなかったとされる。

明治以降

現代のサクラのほとんどを占めるソメイヨシノが誕生したのは、江戸末期の事であった。
名前の由来は染井村【東京都豊島区駒込】で誕生した品種である為で、大島桜と江戸彼岸桜を交配して誕生したモノだ。

染井村の吉野桜、染井吉野(ソメイヨシノ)

「江戸彼岸桜」を父に、「大島桜」を母に自然交配した伊豆半島の桜を、江戸の染井村の植木屋が発見し「吉野桜」と名付けられるが、その後、奈良・吉野山の「ヤマザクラ」と名前が混同しやすい事から、1958年に「染井吉野(ソメイヨシノ)」と改名された。

ソメイヨシノをはじめ、明治時代以降には加速度的に多くの場所にサクラが植えられていった。
明治維新後に大名屋敷の荒廃や文明開化・西洋化の名の下に多くの庭園が取り潰されると同時に、そこに植えられていた数多くの品種のサクラが切り倒され燃やされた。
これを憂いた駒込の植木・庭園職人の高木孫右衛門は多くの園芸品種の枝を採取し自宅の庭で育てた。
これに目を付けた江北地区戸長(後に江北村村長)の清水謙吾が村おこしとして荒川堤に多くの品種による桜並木を作り、これを嚆矢として多くの園芸品種が小石川植物園などに保存されることになり、その命脈を保った。

旧日本軍と桜

日本軍においても桜は好まれていた。
「歩兵の本領」や「同期の桜」などといった歌詞に「桜」「散る」という表現を反映した軍歌・戦時歌謡も多数作られ、太平洋戦争末期には特攻兵器の名称にも使われている(桜花や桜弾機など)。
サクラにも哀しい歴史が在ったようだ。

寒緋桜

寒緋桜
沖縄で桜といえばこのカンヒザクラを指す


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