倭寇と勘合貿易

倭寇と勘合貿易

室町時代の東アジアを暴れまわった海賊集団・倭寇の勢力は強大で、朝鮮半島の高麗が滅亡したのは、倭寇の侵略が一因となったともいわれている。

倭寇の略奪行為

南北朝を統一し、国内を制圧した足利義満は、倭寇の取締と対明貿易に力を入れた。
倭寇とは日本人などによる海賊で、少ないもので2〜3隻、多いものは100隻以上の船団を組んで、中国の沿岸や朝鮮半島を荒らしまわった。
米穀を奪い、人を連れ去って奴隷にし、あるいは売り払う。
ときには500隻もの船団を組んで押し寄せたという。

北虜南倭

中国の明では、北のモンゴル人と並んで「北虜南倭(ほくりょなんわ)」と呼ばれ、大いに恐れられた。
朝鮮半島の高麗は倭寇の度重なる侵略に疲弊し、滅亡が早まったともいわれている。

明との貿易が始まると、倭寇は消滅

倭寇の最盛期は1370年から80年頃で、まだ弱体だった室町幕府の目も届きにくかった。
中国や朝鮮から盛んに取り締まりを要請された義満は、倭寇の討伐を命令。
やがて明との貿易が始まると、倭寇の脅威も治まった。

明との勘合貿易

割符を用いた勘合貿易

日本と明との正式な貿易「日明貿易」は、1404年に始まった。
日本から刀剣、扇、硫黄などが輸出され、明からは銅銭、織物、書画などが輸入された。
倭寇と区別する為、割符の一種である「勘合(かんごう)」を使用したので、勘合貿易と呼ばれる。

日本国王 足利義満

勘合貿易は、自国人の私的な渡航を禁じた政策「海禁政策」下の明に臣下の礼をとる朝貢貿易で、当時は50以上の国が明との朝貢貿易を行っていた。
義満は1401年に、僧祖阿(そあ)と商人肥富(こいづみ)を使いとして明の皇帝へ親書を送り、国交を開きたいと申し入れる。
日本国王源道義に勅す」と書かれた皇帝からの返書をみた義満は、一国の支配者として認められた事を喜んだという。
勘合貿易は皇帝から沢山の銅銭を送られたほか、滞在費、運搬費など全て明側が負担した為に、幕府に莫大な利益をもたらした。

前期倭寇と後期倭寇

前期倭寇は日明貿易の開始などにより下火になったが、16世紀になって日明貿易が断絶すると、再び活発化した。これを後期倭寇という。

三浦の乱 1510年
朝鮮の三浦(薺浦(せいほ)、富山浦(ふざんぽ)、塩浦(えんぽ))に住む日本人の暴動事件。これにより朝鮮との通行は一時断絶した。
寧波の乱 1523年
大内氏と細川氏が勘合の真偽を巡り紛争。貿易は一時中断し、その後、大内氏が貿易を独占した。

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