後嵯峨天皇

後嵯峨天皇

後嵯峨天皇

執権、北条泰時によって推挙され即位

後嵯峨天皇は土御門天皇(つちみかど)の大三皇子。後深草天皇、亀山天皇の父にあたる。
皇位に就くまでは、幕府と朝廷の思惑が絡んだため紆余曲折があった。
四条天王が兄弟も皇子女もいないまま崩御したため、皇位継承問題が浮上する。
九条道家、西園寺公経(さいおんじきんつね)ら公卿勢力は、順徳上皇の皇子である忠成王(ただなりおう)を擁立した。
しかし、幕府執権の北条泰時は、これに承伏しかねた
順徳上皇はその父の後鳥羽上皇と共に承久の乱を主導した人物であった。
佐渡に配流されていたが、この頃はまだ存命中であった。
仮にその皇子を即位させれば、順徳上皇の還京運動が高まり、ひいては朝廷の反幕府勢力が息を吹き返す可能性があったのだ。
北条泰時は承久の乱が勃発したとき、もっとも中立的立場にあった土御門の血統が皇位を継ぐのが、最も望ましいと考えたのだ。
頭を悩ませた泰時は、神明により事を結するとして、鶴岡八幡宮で「くじ」を引かせ、後嵯峨を推挙したのである。
泰時は道家らが忠成王を即位させれば、廃位させるつもりであったともいわれる。

不遇の皇子が、天皇に即位

後嵯峨はそれまで不遇の皇子であった。
誕生一年で母と死別し、承久の乱後に土御門が土佐に流された為、父とも離れ離れとされたのだ。
母方の源通方(みちかた)のもとに身を寄せた後、祖母の源在子(ざいし)のいる土御門殿で教育されていた。
後嵯峨は23歳で出家も元服もしていなかった
仁治(にんじ)3年(1242)正月19日、鎌倉からの使いが訪れた時、土御門殿は草深く苔むし、古ぼけた住まいだった。
使者が意を告げると、中の人々は思わぬ幸運に慌てふためいたとされる。
後嵯峨はこの翌日に元服し、その夜に内裏へ移った。

朝廷は幕府に取り込まれる

それまで朝廷と幕府の間は緊張関係にあったが、幕府の意向で誕生した天皇の登場により、朝廷は、ほぼ幕府の統制下に置かれるようになった。
九条道家はほどなく失脚し、代わって西園寺実氏が関東申次(もうしつぎ)として朝廷と幕府間の媒介を務めた。
後嵯峨は在位4年で皇子の後深草に譲位し、上皇となった。
以後、亀山天皇の代にわたって院政を敷いた。
建長4年(1252)、執権の北条時頼の要請により、皇族将軍の東下を承諾する。
皇子の宗尊新王(むねたかしんのう)を鎌倉へ送った。
これにより公武間の親交は一段と強まったのだ。

南北朝分裂の原因を作る結果に・・

後嵯峨天皇は中世の大きな火種を残している。
崩御する直前に、幕府へ「将来の皇位は後深草・亀山両流のいずれとも定めない。幕府の推挙に任せる」という旨の御書を遣わしていたのだ。
これが後に、両統迭立(りょうとうてつりつ)、および南北朝の分裂の原因となってしまうのである。



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