女性の視点に立つと、また違った歴史が見えてくる。
男性と違い女性は子を産む性であり、この生物学的な両者の違いが互いの役割を分けた。
その役割が家族・共同体・国家・社会・文化の中でどのように認識されていたのかで、その時代ごとの女性の社会的位置が決定づけられて来た。
歴史上の女性たちの生き様を追ってみる。
古代の日本は母系・父系双方の親族集団に属する両属的な社会であり、豊富な経験と統治能力の必要性から多数の女帝が生まれた。
だが8世紀に律令官僚制が導入されると、父系・男性優位の原理が埋め込まれ、女性の活躍の場は後宮に限定された。
律令官僚制によって公的役職は男性の独占物となり、貴族女性の活動は後宮のみとなったが、9世紀半ば頃までは後宮十二司で働く女性官人の政治的役割は大きかった。
10世紀以降、後宮の性格は変化する。
制度の再編の中で女房が朝廷の内外で活躍した。
深い教養を持った女房により後宮は文化の発信源となる一方、院や天皇に奉仕する女房の中には権力を振るう者も現れた。
安田靫彦画『卑弥呼』
土佐光芳『推古天皇像』
勝川春章画『錦百人一首あつま織』
安田靫彦画『飛鳥の春の額田王』平安中期、天皇の母となり「国母」と称された摂関家の女性が、子や孫の天皇家を後見し政務の補佐を行った。
こうして国母の影響力が高まるなか、男性の院に準じた女院も創設された。
真正極楽寺蔵
紫式部日記絵巻断簡(東京国立博物館蔵)摂関期の後宮では、女性の文字である「平仮名」を使った文章が発展し、華やかな国風文化を支える才知ある女房たちが輩出した。
歌川豊国画
土佐光起画
藤原道綱母(百人一首より)
赤染衛門『月百姿』月岡芳年画
和泉式部(百人一首より)院政期には正式な婚姻儀礼を経ず院や天皇の子女を産む女性が増えた。
彼女たちは子が天皇となった後で后や女院などの待遇を受け、政治に関与した。
美福門院像(安楽寿院蔵)
八条院像(安楽寿院蔵)武家政権においても、女性は妻・母・後家として国を動かした。
なかでも鎌倉時代、源頼朝の妻・北条政子と、室町時代、足利義政の妻・日野富子は子や夫に代わって幕政を担った。
北条政子(菊池容斎画)戦国時代、結婚により他家へ移った女性は、実家と婚家という二つの家の間に立つ人間として家や国同士の交渉を担い、領国経営に役割を果たした。
寿桂尼
お市の方『浅井長政夫人像』高野山持明院所蔵
『伝淀殿画像』奈良県立美術館所蔵戦国時代に作られた「七十一番職人歌合」には、142種類の職人たちが、男女いずれかの姿で登場する。
女性は酒作や魚売、豆腐売、機織、扇売など34種類に登場する。
女性の酒作の従事は古代から見られるが、近世では穢れているという理由で酒蔵への出入りを禁止された。
江戸幕府では「表」と「奥」の性別分業が推し進められ、正室ら当主家族の女性とそれに奉仕する女中衆は奥向きに限定された。
女性が直接表の政治に関わる事は禁じられたが、奥の人間として政治的に重要な役割を果たす事もあった。
江戸城大奥の中で、将軍正室である「御台所」は権威ある存在であった。
家の存続を保障する役割がある為、側妾が生んだ子や養子であっても、嫡母・養母として子女の養育の責任を担った。
奥女中は家の女性家臣団と位置付けられる。
職制や職階があり、職階を上る事も可能。
出身は公家や大名の娘から旗本・御家人の娘、江戸の町人や近郊の名主クラスの家の娘など様々だった。
古代以来、女帝の即位はなかったが、近世は明正、後桜町が即位している。
皇位継承は古代から父系・男性優位の原理だが、女帝を絶対に排除するものではなかった。
明治時代の皇室典範により、男子のみの継承となる。
近世ではいわゆる士農工商の身分が固定化されるが、「家」代表者の男性のみに与えられた為、女性はその制度の外に置かれた。
小家族成立の流れのなか、中世に比べると「家」を持つ男女は増加し、男性優位社会ではあるものの、夫婦共稼ぎを行い、家計に貢献する女性は多かった。
1589年、豊臣秀吉が京都に散在していた遊女を集め遊郭を作る事を許可した。
これが集娼公許による公娼制の始まり。
1617年には幕府が江戸の葦屋町に遊郭を作る事を許し、吉原と命名された。
初期の吉原にいた遊女は敗残の武士の妻女や隠売女、湯女など。
後には貧困層の娘などが借金による遊女奉公人の形をとって売られたり、犯罪者の奴刑として送られたりした。
吉原は、1657年の明暦の大火で全焼したが、浅草日本堤に移転して新吉原と呼ばれ、一大遊郭となった。
近世は女性の公教育の場はなかったが、家庭教育や私塾などで学ぶ女性がいた。
様々な階層の女性たちが俳諧、和歌、日記、散文、黄表紙などの多様なジャンルで自己を表現した。
幕末期には維新を目指し活躍した女性がいた一方、天璋院や和宮による徳川家存続への働きかけが行われた。
幕府崩壊とともに奥女中の果たしていた公的・政治的役割は消滅した。
明治新政府の下、天皇を取り囲んでいた女官は新たに再編された。
歌人の野村望東尼(のむらぼうとうに)は高杉晋作ら尊王はの志士を庇護し、黒沢登幾(くろさわとき)は安政の大獄で罰せられた徳川斉昭の冤罪を長歌にして朝廷に訴えた。
松尾多勢子は尊攘派の公卿や獅子との連絡係を担った。
明治時代の自由民権運動の盛り上がりの中では、女性の民権家も登場した。
1925年に成立した普通選挙法には、女性の参政権がなく、政治的・社会的な女性の権利獲得を目指す運動は続いた。
近代化の中で、女性のあるべき姿として良妻賢母思想が登場した。
「男は仕事、女は家庭」という性別役割分業論を背景に、家内領域を女性の責任とする考え方である。
近世と違い、責任主体として女性を捉えたといえるが、女性の活動を制限する側面もあった。
岸田俊子は自由民権運動の集会で女権の演説を行い、それに刺激を受けた福田英子は女性の権利拡張に向けて奔走。
楠瀬喜多は高地・立志社の民権運動を支援した。
戦後、女性参政権が実現し、多くの女性議員が誕生した。
女性たちは政治への関心を高め、社会を動かす力を獲得した。
1985年には国が女子差別撤廃条約を批准するなど、女性が行きやすい世の中を目指す活動は今も続いている。
高度経済成長下で夫は仕事、妻は家事・育児という性別役割分業家族が定着するが、次第に男性一人の賃金では家族を支える事が出来なくなり、女性が労働市場へ進出する。
共働きの家族は増えているが、今もなお性別役割分業意識は根強く、女性の社会への参画は思うように進んでいない。