中国と朝鮮半島

中国と朝鮮半島の領土問題

中国と朝鮮、この二つの国は、文明が興り始めた頃から共にあった。
歴史的に常に中国と共にあった朝鮮だが、その関係は時代によって、微妙な変化を重ねながら、現代に至っている。
現在、北朝鮮韓国共に中国とは多くの問題を抱えてはいるものの、政治的・経済的に切っても切れない関係にあるのだ。

中国に振り回され続けた朝鮮半島

東夷と呼ばれた地域

かつて漢民族から東夷と呼ばれていた地域は朝鮮半島や満州、台湾、そして日本である。
これらの地域と中国の関係は、それぞれの経緯や地理的状況によって、かなりの違いがある。
朝鮮半島は、漢字社会制度、あるいは儒教仏教など、中国の影響をかなり強く受けた地域である。
同時に朝鮮半島に興った王朝は、歴代の中国王朝から、常に圧迫を受け続けていた。

歴史上、常の中国と共にあった朝鮮

高句麗(BC37〜AC668)など、短期間には朝鮮半島の国が中国を押し込める事もあったが、基本的に、中国の属国的な扱いを受ける事が多かった。
また、中国の王朝に滅ぼされた朝鮮半島の国も多い。
日本も東夷であり、社会・国家制度や文化、思想・宗教など中国の強い影響を受けているが、陸続きではなかった。
そのため、朝鮮半島のように、中国から直接の圧力を受ける事はほぼ無かった。

清の下から独立を果たした朝鮮

1894年の日清戦争以降、朝鮮半島は清の下を離れ、大韓帝国として独立を果たした。
その後の朝鮮半島は、35年間の日本による統治時代を経た後、南北に分裂はしたものの、南北共に自治権を確立し、国家として独立を果たす。
さらに、近代化を果たした韓国ではあるが、現在の中国と朝鮮半島の関係は、昔とあまり変わっていないのも実情だ。

現在の中国と朝鮮半島の関係

中国の庇護下で体制を保っている北朝鮮、中国とは歴史認識や東シナ海上での領土問題を抱えながらも関係を重視せざるを得ない韓国だ。
この図式は、古代からほぼ変わっていないのである。

高句麗とは、どこの国?

朝鮮史における高句麗

古代朝鮮の三国時代の一国である高句麗。
高句麗は、西暦668年まで続いた王朝で、現在の中国東北部(満州)の一部から北朝鮮・韓国北部までを含んでおり、首都は現在の平壌などの朝鮮半島に置いていた。
高句麗は百済、新羅と朝鮮半島内で勢力争いを繰り広げており、最終的には新羅によって統一される形で、朝鮮は統一を果たした。
歴史的に高句麗は朝鮮の王朝であると考えるのが妥当であり、日本でも高句麗は朝鮮の国家、つまり朝鮮民族の国家だと考えられている。
勿論、北朝鮮・韓国ともに同じ認識であり、中国も長い間、高句麗を「朝鮮史」として扱っていた
しかし、21世紀に入り、中国側では高句麗に対し、自国の地方政権に過ぎないという歴史認識を打ち出している。
要するに、かつて高句麗だった土地は、中国の土地だと言いたいのだろう。

中国の論理的な侵略

20世紀末までは、中国は高句麗を朝鮮史としていたが、1997年に「東北工程」と名付けられた中国東北部に関する古代から現代までの歴史研究が進められた。 そして、2002年に発表されたその成果において、高句麗は中国の一部とされたのだ。
もともと高句麗は、春秋十二列国の一つ燕の領域であり、建国時の高句麗は、中国の版図の中にあったともいえる。
また、高句麗を建国した人々は、現在の朝鮮民族とは系統が異なっており、朝鮮語も高句麗で使われていた言語とは系統が異なっている。
もともと高句麗であった土地は、現在の中国の土地も含んでおり、当時の高句麗に人々の多くは中国に吸収されている事もあり、そのため、高句麗を中国の地方政権、つまり中国の一部だという論理である。

高句麗は、新羅・高麗に吸収された

韓国は中国の主張に反発している。
高句麗滅亡後、高句麗の多くの人々は新羅に流入し、その後、新羅の次の統一王朝である高麗に吸収された。
その後、高麗に変わって登場したのが李成桂によって建国された「李氏朝鮮」であり、現代の韓国と北朝鮮である。
だから、高句麗は朝鮮王朝の系譜に位置づけられるべきである、という意見である。

北朝鮮崩壊後を睨む中国

朝鮮半島を民主的に統一させたくない中国

現在、中国と韓国は、これらの歴史認識を政治問題化しない事で合意してはいるものの、以前、意見の食い違いは続いている。
中国が近年、朝鮮半島北部にあった古代国家を、強引に自国史に含めているのには、理由がある。
恐らくではあるが、北朝鮮崩壊を予見しており、崩壊後にはその領土を中国が併合する為の、言い分を用意しているのだろう。
現在、北朝鮮はアメリカと対立関係にあり、いつ崩壊してもおかしくない窮地に立たされている。
中国は北朝鮮がアメリカによって解放されるのを恐れている為、そのため事前に備える必要があるのだ。

中国と北朝鮮の領土問題

中国吉林省東部では朝鮮族の自治が認められている。
現在の中国と北朝鮮の国境付近では、17世紀以降、領土をめぐる争いが絶えなかった。
この地域には、朝鮮民族にとっての聖地である白頭山(ペクトゥサン)もあり、その事が、問題を余計に複雑にしているという。

中朝国境問題

中国と北朝鮮の国境地帯 間島

中国と北朝鮮の国境付近に、かつて間島と呼ばれた地域があった。
同地域の大半は現在、中華人民共和国吉林省東部にあたり、中国の領土である。
だが、そこには延辺朝鮮自治州(えんぺんちょうせんじちしゅう)が設置され、朝鮮族による自治が認められている。
このような特殊な地域となった背景には、次のような歴史的な経緯がある。

もとは満州族の土地だった 間島

もともと間島一帯は、清を建国した満州族の土地であった。
だが、17世紀以降、朝鮮人の移住が進み、19世紀には住民の8割近くが朝鮮族となった。
これに対し、清は、たびたび朝鮮に移住民を引き上げるさせるよう要求したが、流入は止まらなかった。
そこで、追い返す事を諦めた清は、朝鮮人民常民を領民と認める代わりに、課税する事で、手を打っている。

清の弱体化をついた朝鮮が、間島支配を強化

その間、清と朝鮮は国境線画定の会議を何度も行ったものの、合意には至らず、間島の帰属は曖昧なままとなっていた。
そのうちに、清が日清戦争で日本に敗北を喫する。
1897年に大韓帝国と国号を変えていた朝鮮は、清の弱体化を見て、間島管理使を任命して、現地に派遣するようになった。
つまり、間島の実効支配を強化しようとしたのだ。
これによって、清と朝鮮(大韓帝国)の間で間島の帰属をめぐる争いは激化した。

間島協約で領土が画定

この問題に一定の解決をもたらしたのは、意外にも日本であった。
1905年に大韓帝国を保護国化した日本は、間島問題に介入する。
当初、日本は間島を大韓帝国領とする方向で動いていたが、1909年の清との外交交渉の結果、一転、清の領有権を認める「間島協約」を締結した。
この決定に、当時、外交権を日本に握られていた韓国は抗議する事が出来ず、間島をめぐる中朝の対立はひとまずの終結を迎えた。

朝鮮族自治州の誕生

そして、この取り決めは以後も、中華民国、中華人民共和国へと引き継がれていった。
だが、同地に多くの朝鮮族が暮らしている事実は変わらなかったので、第二次世界大戦後、中国は朝鮮族自治州を設置したのである。

二分された朝鮮族の聖地 白頭山

神話による朝鮮発祥の地

間島問題には、間島の西端に位置する白頭山の存在も深く関わっている。
朝鮮半島で信じられている建国神話では、朝鮮民族による国家が初めて誕生したのは、この白頭山の地であるとされている。
そのため、朝鮮民族にとっては聖地となっているのだ。

白頭山出身を自称する北朝鮮指導者

北朝鮮の2代目指導者であった金正日(キム・ジョンイル)は自身を権威づける為、白頭山で生まれたと称していた。
実際には、現在のロシア極東地方で生まれたというのが、定説となっているが、それほど白頭山という名前は、朝鮮民族によって重要な事なのだ。

中朝辺界条約により白頭山を半分に

「間島協約」の終結後も、白頭山の帰属は確定していなかった。
だが、1962年に中国と北朝鮮の間で結ばれた「中朝辺界条約」により、頂上にある天地と呼ばれるカルデラ湖に国境線を引き、山の北側にあたる45.5%が中国領、南側の54.5%が北朝鮮領と取り決められた。
要するに、中国と北朝鮮で白頭山を半分こにしたのだ。
北朝鮮としても、間島を中国領とする事は認められても、白頭山までは譲れなかったのだ。

終わりが見えない白頭山の領有権問題

なお、「間島協約」は当時の日本と清の間で結ばれたものであり、「中朝辺界条約」は中国と北朝鮮の間で結ばれたものである。
つまり、現在の大韓民国はどちらの条約にも関わっていない事になる。
その他、韓国国内では、間島や白頭山の領有権を主張する声もある。
また、白頭山は朝鮮民族による呼称であり、中国側は長白山(チャンパイシャン)と呼んでおり、その事時代に対する反発も根強い。
さらに、現在の中国では、間島を自国史に含む「東北工程」の歴史研究も進んでいる為、この問題は当分終わりそうには無いのが実情だ。

東シナ海をめぐる中国と韓国の対立

東シナ海では、おける中国と韓国の激しい利権争いが続いている。
小さな暗礁の上空に設定された防空識別圏に、リゾート島の土地買い占め問題と、中韓の間には今日も難しい懸案が山積みしている。

東シナ海に沈む小さな暗礁が中韓の新たな火種に

蘇岩礁をめぐる中韓

東シナ海の黄海寄りの海上に、蘇岩礁と呼ばれる岩がある。
蘇岩礁は中国での呼び方であり、韓国ではこの岩の事を離於島(イオド)、あるいは波浪島(パランド)と呼んでいる。
ただ、蘇岩礁は干潮時にも岩頂が海面下4.6メートルの海中にあるため、正確には島ではなく暗礁という事になる。
そのため、蘇岩礁は韓国が実効支配しているものの、国際法上は領土と看做されない。
しかし、現在、中国と韓国はこの暗礁をめぐって激しく対立している。

蘇岩礁の歴史

歴史上、蘇岩礁の事が初めて記録されたのは、紀元前4〜3世紀頃に書かれたとされる中国の地理書「山海経」だ。
その中の一文、「東海之外、大荒之中、有名日猗天蘇山」は、蘇岩礁を指しているとされる。
その後、蘇岩礁の存在は大きく注目される事は無く、1900年にイギリス船ソコトラ号が改めて暗礁を確認した。
そこから、蘇岩礁の英語名はソコトラ岩(Socotra Rock)と名付けられた。

李承晩ラインによって、蘇岩礁が韓国領に

1952年、韓国大統領の李承晩が一方的に東シナ海と日本海に軍事境界線、李承晩ラインを設定。
これによって、蘇岩礁は、一方的にだが韓国の領海内に含まれる事となった。
李承晩ラインを中国や日本は承認しなかったが、それでも蘇岩礁の存在自体が中韓で大きな問題となる事は無かった。

韓国が離於島海洋科学基地を建設

ところが、事態が急変する。
2001年に韓国が蘇岩礁の上に離於島海洋科学基地を建設した事を機に、中国と韓国の間で、蘇岩礁をめぐる対立が生まれ始める。

中国が防空識別圏を設定

中国は蘇岩礁が中国のEEZ(排他的経済水域)に属すると認識しているため、韓国が離於島海洋科学基地を建設を建設した事に猛抗議を始めた。
監視用航空機を飛ばし、威嚇的な偵察を複数回繰り返した。
さらに、2013年11月には中国は東シナ海の上空にADIZ(防空識別圏)を設定し、その範囲に蘇岩礁も含めたのだ。
これは、蘇岩礁の近海を飛行する航空機は、中国に対する領空侵犯と看做す事を意味する。
※日本の沖縄県尖閣諸島もこの範囲に含まれる。

韓国も防空識別圏を設定

この中国の動きに対し、韓国の国防部は同年12月にADIZの拡大を発表し、蘇岩礁をその範囲に含める事で対抗。
当然、中国はこれに反発する。
2017年現在でも、両国は蘇岩礁の帰属について、対立している。

中韓の排他的経済水域をめぐる対立も顕著に

この蘇岩礁の問題以外でも、中韓のEEZをめぐる争いは激化しており、黄海上で数年前から中国漁船と韓国海洋警察との衝突が多発し、双方に死者も発生している。
両国にとって、東シナ海、及び黄海の利権争いは、抜き差しならないものとなっているのだ。

済州島での中国の不穏な動き

東シナ海における中国の拡大路線に韓国が悩まされている事案としては、済州島土地買収問題もある。
朝鮮半島の南端沖に浮かぶリゾート地の済州島。
済州島では2006年以降、韓国政府の決定により中国人がビザなし渡航が許可されている為、多くの観光客が中国から押し寄せてきている。

中国人に購入される済州島の土地

それだけならば大きな問題とはならないが、済州島では5億ウォン(50万ドル)以上の不動産投資を行うと、韓国で暮らす事が出来るビザが発行され、さらに5年間に渡って不動産を保持し続ければ、永住権が得られる制度となっている。
その為、中国人による土地の買い占めが進んでいる。
中国では個人の土地所有が認められていないため、裕福層は海外の土地を買う事に熱心なのである。

危機感を強める韓国

2014年の時点では、この制度を利用して韓国の永住権を獲得した外国人は783人いたが、そのうち768人は中国人といわれている。
この事態に対し、韓国内でも外国人が永住権を獲得する条件を厳しくするべきだという議論が高まっている。


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