李成桂

朝鮮王朝の始祖 李成桂

李成桂

500年もの朝鮮王朝を樹立

李成桂(イ・ソンゲ:1335〜1408年)は朝鮮(李氏朝鮮)の初代王。高麗の武将として、首都開城を占領していた中国の紅巾軍を破り、倭寇の侵入を撃退した。
高麗の第34代国王 恭譲王(きょうじょうおう)に譲位させて自ら即位し、国号を朝鮮と改めた
新たな土地制度の施行や儒教(朱子学)の保護といった国内改革を推進した。

朝鮮王朝建国までの道程

中国で朱元璋(しゅげんしょう)が明の皇帝への出世道を駆け上がっていた頃、滅びゆく元朝に服属していた高麗でも、第31代高麗王 恭愍王(きょうびんおう)が反元政策を進めていた。
対する元朝は1364年に一万人の軍勢を高麗に派遣するが、この時に元軍を撃退した武将の一人が李成桂(イ・ソンゲ)である。
優れた武将だった李成桂は、用兵だけではなく、武芸にも秀でていた。
当時高麗を悩ませていた倭寇と対峙した際には、尻を叩いて高麗軍を挑発した倭寇の兵を、200歩離れた場所から一矢で射止めたという。
この時の倭寇を撃退した事で、李成桂の部名は確固たるものとなっていった。

高麗の状況

一方、反元・親明政策を進めていた恭愍王は、晩年になると乱行を重ねるようになり、1374年に宦官(かんがん)によって殺害されている。
代わって幼い王ウが第32第国王として即位するが、国相として政治の実権を握った李仁任(イ・イニム)は、何を血迷ったか、既に中原の支配権を失い、北方の小国となっていた元(北元)と手を結んだのだ。

明との確執

間もなくこの政策は再転換されたが、不信感を抱いたは、1386年に五千頭の馬を納めるよう命じて、高麗の忠誠心を試した。
ところが、贈られてきた馬はどれも使い物にならない駄馬だった為、国交は途絶した。
さらに、明が元朝の旧領だった現在の北朝鮮・江原道淮陽(カンウォンド・フェヤン)郡以北の割譲を通告すると、成人していた王ウは軍隊の派遣を決定し、1388年、李成桂らを進発させた。

威化島の回軍

しかし、この暴挙に反対していた李成桂は、鴨緑江下流の威化島で軍を引き返して王ウらを追放する。
この「威化島の回軍」で政治・軍事の実権を手にした李成桂は1392年、自らが擁立した第34代 恭譲王から譲り受ける形で、王座に就いたのだ。

後継者争いと失意の晩年

こうして、500年以上に及ぶ朝鮮王朝(李氏朝鮮)を建国した李成桂だったが、その晩年は心痛が絶えなかったといわれる。
五男の李芳遠(イ・バンウォン、り・ほうえん(後の3代 太宗(テジョン、たいそう))を中心に、息子たちが骨肉の後継者争いを始めたからだ。

出奔する李成桂

1398年には建国にも功績のあった芳遠が異母弟を殺害する事件が勃発する。
李成桂は悲しみのあまり次男の李芳果(第2代 定宗(チョンジョン、ていそう))に譲位してしまう。
また、1400年に芳遠が定宗を流刑に処した事を知ると、何もかもが嫌になった李成桂はわずかな従者を連れて、ひっそりと宮殿を抜けだし、現在の北朝鮮の咸鏡南道(ハムギョンナムド)に出奔する。

仏門に帰依

その治世では、私有地を拡大して勢力を仏教勢力を抑え、儒教を国教と定めた李成桂だった。
しかし、出奔後は自ら仏門に帰依している。
太宗として即位した芳遠が何度帰京を即しても、なかなか戻ってこようとしなかったのである。



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