14代徳川家茂

14代将軍 徳川家茂

徳川家茂(いえもち)(慶福)は江戸幕府14代将軍(在任1859-1866)(生没1846-1866)。就任前は御三家和歌山藩第13代藩主。皇女和宮を娶る(和宮降嫁)も、21歳という若さで亡くなった。

目次

政治的には【お飾り】だった若き将軍

幼くして将軍になり、若くして亡くなってしまう

14代将軍の徳川家茂(もと慶福)は、21歳という若さで亡くなったこともあって、長らく幕末政治史上で脚光を浴びることはなかった。
なにしろ征夷大将軍に補されたのが安政5年の10月で、満年齢でいえば12歳そこそこの少年であり、それからの将軍在位期間は10年に満たなかったからである。

基本的に政務は大老と老中に任せていた

したがって、将軍在職時の前半2年間は大老・井伊直弼に、その後の8年間は直弼のあとを継いだ老中たちに政治を任せた存在だと見なされていた。それが家茂をして影の薄い脇役としての存在に止まらせたのである。
だが、近年では、彼が果たした独自の役割に注目が集まっている。

勝海舟は家茂を高く評価していた(お世辞の可能性あり)

家茂に対する評価として、最もよく知られているのは、文久3年(1863)年の4月に大坂の地で幕府の軍艦に乗せて案内した勝海舟の証言(『勝海舟関係資料・海舟日記(1)文久4年正月3日条)である。 勝は好奇心にあふれ、自分に何度も質問を繰り返した家茂について、翌年、次のように書いた。「将軍家いまだ御若年といへども、まことに英主(秀れた君主)の御風あり、かつ御勇気盛んなるに恐服す」と言う風に、勝海舟は家茂のことを高く評価していたようである。

家茂の人柄、身体的な特徴など

身長156.6p、ややぽっちゃり、彫り深く鼻筋が通る

家茂の容貌であるが、科学調査によってそれなりの精度で生前の姿がわかっている。
ほぼ完全な姿のままで見つかった遺骨を鑑定した結果、身長は156.6pと推定された。当時にあっては、平均的な背丈だった。
家茂の顔立ちに関して、特徴的なのは、鼻梁が高く、眼窩の高さと幅が現代人のそれと比べて際立っていたことだ。つまり、鼻筋が通り、彫りの深い顔立ちだったということである。 ただし、身体は少々ぽっちゃりとしていたらしい。

質素倹約、真面目、謙虚、素直、忍耐力強し

家茂に接した人物たちの残した各種の史料から、子供時分から人柄がすこぶる良かったという事がいえる。
生活態度も質素な食事を好み、将軍として政治に取り組む姿勢も真面目・謙虚で、忍耐強く、他人の言葉に素直に耳を傾けたという。

霊感があった?繊細な面もあった家茂

繊細な所も多々ある青年だったらしく、次のようなエピソードが残されている。
将軍として家茂が生まれて初めて京都に乗り込んだ18歳の時の話である。上洛の途上、ある寺に宿泊した際、「座敷がひどく陰気」だったので、家茂は「不快に感じ」、その結果、宿所が変更されたという(久住真也『王政復古』)。

幼少・少年時代のエピソード

初めて家慶と謁見した時に泣き出す

6歳のときに12代・将軍家慶に初めて謁見するため江戸城に登城したが、重々しい雰囲気のため菊千代(家茂)は号泣。菊千代が小鳥好きと知った家慶がアヒルや小鳥を部屋に放つと泣きやんだという。

将軍就任後は趣味を替え、文武両道に勤しむ

南紀徳川藩史には「御五歳の節色々の小鳥ト遊び〜」とあり、幼少期から鳥や池の魚などを可愛がっていたが、12歳の時に将軍に就任すると、それらの楽しみを捨てて文武両道に邁進したという。

幕臣・戸川安清のお漏らしを機転を利かせてごまかした

将軍になりたての頃、70歳を過ぎた幕臣の戸川安清に習字を習っていた際、安清が失禁してしまう。それを見た家茂は大きな水差しを手に取って頭から水をかけて大笑いした。これは安清の失禁をごまかした行為だった。

柔道の稽古見学中、手を踏まれてもやせ我慢をした

年代は不明だが、御庭奉行の池端善作の柔術の稽古を見学していた際に間違って両手を踏まれた。善作が平謝りの中で家茂は「御涙バラバラと御こぼしに」なりながら「なんともなし」と言ったという。

和宮降嫁〜朝廷から皇女を娶る

朝幕関係を修復するため、幕府は和宮降嫁を望んだ

家茂と結婚する皇女和宮(1846〜77)であるが、この結婚は幕府側からの要請を受けて成立した。
安政の大獄では、朝廷内にも犠牲者がでたことで、朝廷と幕府との関係は当然のことながら悪化した。
そこで良好な朝幕関係を再度構築するために、家茂の御台所(妻)に皇女をという話がでてくる。

本人の意向は無関係に、消去法で和宮が選ばれる

結婚の話が持ち上がったのは、安政の大獄が始まった段階であった。
しかも、幕府内のみならず、朝廷関係者からも政情の安定のために皇女の降嫁が必要だとの声があがった。
対象となった皇女は3人いた。が、1人は家茂より18歳上、1人は1歳の幼女であったため、結局、和宮だけが残った。

和宮は【江戸は夷人の住む場所】だと思っていた

和宮には有栖川宮熾仁親王という婚約者がいた。そのうえ、兄の孝明天皇も和宮の生母もともに反対した。
なにより、和宮本人が夷人(外国人)の住む地だと思い込んでいた江戸に下ることを大変嫌がったので、この話は進展しなかった。

攘夷を幕府が約束した事で結婚成立

結局、和宮降嫁の交換条件として、孝明天皇が望む攘夷の決行を幕府が約束したために、和宮はいやいやながら承諾して、両人の結婚が文久2年(1862)の2月に実現することになった。

和宮が出した降嫁条件

和宮付きの女官としてともに江戸に下った庭田嗣子の書簡によれば、和宮の要望がほとんど守られず、大奥の女中たちと折り合いが悪く、和宮が涙したこともあるという。

  • 父・仁孝天皇の17回忌の後に関東へ下向し、以後回忌ごとに和宮を上洛させること
  • 大奥に入っても万事は御所の流儀を守ること
  • 御所の女官をお側付きとして連れてくること
  • 御用の際には伯父である橋本実麗を下向させること
  • 御用の際には上臈か御年寄を上洛させること

全く政治の安定に繋がらなかった政略結婚

和宮の降嫁が勅許されるにあたり、幕府が10年以内での条約破棄を約束したことで、皮肉なことに両人の結婚は政治の安定にはつながらなかった。
それどころか、逆に、攘夷派が幕府を激しく追い詰める材料(要因)となった。
また、和宮降嫁に猛反発した者の中から、家茂と和宮両人の婚儀を直前に控えた文久2年正月15日に、老中安藤信正を江戸城の坂下門外で襲撃する者も現われた。

和宮と家茂、二人の関係は極めて良好だった

和宮の墓と家茂の墓はともに増上寺にある。2人の関係は非常に良好で、家茂の死後、和宮のもとには長州征伐のお土産にねだった西陣織(空蝉の唐織)が届き、和宮は「空蝉の唐織り衣なにかせん 綾も錦も君ありてこそ」と詠んだという。

家茂といえば【大老・井伊直弼】

井伊直弼が健在のうちは頼るばかりだった家茂

家茂は、将軍職に就いた当初は、まだ少年だったので、大老であった井伊直弼の採用した路線(旧来の政治路線を踏襲する)をそのまま追認するほかはなかった。いわば、井伊直弼に丸投げする状況下にあった。

井伊直弼に多大な信頼を寄せていた家茂

家茂は幼いながらも、直弼に対する家茂の信頼は深いものはあったようだ。
このことは、安政7年(万延元年/1860)の3月3日早朝に、直弼が桜田門外で暗殺された際、家茂が、歎息しつつ、うろつきまわり、襲撃者を「憎き奴」だと怒りをあらわにしたこと、および、その後、「落涙」して、食事も進まなくなったことなどからうかがえる。(万延元年3月7日付彦根藩家老あて[か]宇津木六之丞書簡〔『井伊家史料』26巻])

大老暗殺後、家茂が政治の舵を握る

沈みゆく徳川幕府を守る方法は限られていた

頼りにしていた直弼が亡くなったことで、家茂も子供なりに、変わりゆく状況に将軍として対応していかざるをえなくなる。
天下の大老が公道上で公然と殺害されたことで幕府の権威が一気に低下していった。その現実を克服するために、朝廷(天皇)の権威を借りて難局を乗り切る道を選択する。

義兄・孝明天皇とともに幕府を立て直せるか

そして、それが皇妹和宮との結婚となり、ついで文久3年の2月と翌元治元年(1864)の正月の、2度にわたる京都行となった。
結果、義兄となった孝明天皇の庇護の下、幕府の立て直しを家茂は進めていくことになる。

一橋慶喜を将軍後見職に任じる

慶喜を後見とする事で、敢えて政権の後ろ盾にした

家茂にとって、手を組まねばならないパートナーとして浮上してくるのが、一橋慶喜であった。 大奥や老中を含む幕府関係者が徳川斉昭の子だとして嫌悪していた慶喜に対して、おそらく家茂も当初好感を抱けなかったと思われる。
直弼を襲撃したのは水戸藩を脱藩した浪士であったし、息子の慶喜を将軍職に据えることで幕府の実権を握ろうとする野望を斉昭は抱いていたと、さかんに吹聴されていたからである。
だが、家茂には、幕府の実力が明らかに低下した中、慶喜の登用を求める旧一橋派の大名や一部の朝廷関係者の強い圧力をうけて、慶喜を自らの後見者として受け入れるしかなかった(文久2年の7月、朝旨を奉じて、慶喜を将軍後見職に任じた)。

両者の関係が修復されたわけではない

その後の慶喜との関係であるが、慶喜に対する嫌悪感らしきものは払拭しえなかったと思われるが、慶喜の存在とその能力は無視しえなかったので、両者の関係は強められることになった。

慶喜の影響力が強く、無視することが不可能だった

京都に在って、一会桑勢力(将軍後見職から禁裏御守衛総督に転じていた慶喜、藩主の松平容保が京都守護職であった会津藩、藩主の松平定敬が京都所司代であった桑名藩の三者によって構成される)の中心として、朝廷上層部との結びつきを強め、大きな発言力を持っていた慶喜を差し置いて、物事を推し進めることはできなくなっていたのである。

家茂が将軍職を慶喜に譲る決意

英仏米蘭が通商条約承認を求め京都に圧力をかける

慶応元年(1865)の9月、幕府が欧米諸国と結んだ通商条約の孝明天皇による承認(天皇は頑として通商条約の承認を拒んでいた)を求めて、イギリス・フランス・アメリカ・オランダの公使や代理公使を乗せた四カ国の連合艦隊が兵庫沖に来航した。
ついで彼らは、条約の勅許を求めて京都に押しかける動きすらみせることになる。

慶喜の働きで孝明天皇が通商条約を承認

このあと、慶喜の働きによって、孝明天皇がやむなく通商条約を承認する事態が生まれる(10月5日条約勅許)。

10月3日、慶喜に将軍職を譲りたいとの上書

通商条約の事態が動いている間、家茂は、10月3日に慶喜に将軍の座をゆずりたいとの上書を朝廷に提出した。
この家茂の行為は、長年、家茂の本意にもとづくものではなく、慶喜への反発当てこすり)によるものだと見なされてきた。しかし、近年では、家茂の本心からなされた行為だったという見方も出て来ている。

家茂は、もはや開国体制への移行は避けがたいと判断し、新しい体制の将軍は自分よりも慶喜の方が適任だと判断したうえでの決断であったと評されるようになってきている。

長州征伐の最中に亡くなってしまう

慶応2年(1866)7月20日、脚気衝心により病没

長州征伐のために大坂の地に在った家茂は慶応2年(1866)の7月20日に、脚気衝心のために病死する。享年21(満20歳没)


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