井伊直弼

開国を断行し暗殺された 井伊直弼

井伊直弼

彦根藩から譜代筆頭へ

井伊直弼(1860〜1815年)は、彦根藩主の十四男として生まれた。
部屋住として暮らし、政治の実績を積む機会はなかった。
しかし、彼の兄たちが急逝した事で藩主となり、譜代筆頭として幕政を担った事で、幕末という時代が大きく動き出した。


戦略的な開国による富国強兵

当時の幕政は、外交問題で開国派と攘夷派、将軍継嗣問題(しょうぐんけいしもんだい)で南紀派と一橋派が対立していた。
外交問題について、井伊は一時的な開国西洋技術を取り入れ、富国強兵を図った上で、再び鎖国するという構想を持っていた。
すでに三ヶ国と和親条約を結び、列強の圧力が高まっている状況であり、対外的危機を避けるには、開国が現実的な対応だったのだ。

将軍の跡継ぎ問題

一方、井伊は将軍継嗣問題で南紀派として徳川慶福(よしとみ:後の家茂)を推している。
これは将軍家定の意向に加え、価格の高い方から継嗣を選ぶという当時の慣例に添ったものであった。
井伊は幕閣として正論の立場にあり、意見がスムーズに通るかと思われた。
しかし、いくつかの誤算があったのだ。
対立派に徳川斉昭(なりあき)や島津斉彬(なりあきら)など強い発言力を持つ人物がいた事、そして、朝廷が政治的な影響力を強めていた事だった。

朝廷の勅許を得ずに開国

井伊は対外的危機の回避を優先して条約交渉を行いつつ、朝廷を説得し勅許を得るはずであった。
しかし、アメリカの強硬姿勢にあい、無勅許で条約を締結してしまう。
これを一橋派が一橋慶喜(後の徳川慶喜(よしのぶ))を擁立する口実にした為、将軍継嗣を慶福に決めて、問題の解消を図った。
その一方で、朝廷との融和を求めて和宮降嫁(かずのみやこうか)を企画するが、かえって朝廷を硬化させてしまう。
そして、幕閣の攘夷派と一橋派が連合する形で、反井伊勢力が生まれてしまい、「戊午の密勅事件(ぼごのみっちょくじけん)」へと発展してしまう。

安政の大獄と桜田門外の変

これを政治的陰謀と捉えた井伊は、「安政の大獄」で強権的に対処する。
井伊は「罪は甘んじて我等壱人に受候決意」と述べているが、その孤高的な態度がますます反発を買い、「桜田門外の変」を引き起こし、暗殺されてしまった(享年46)。


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