下関戦争

下関戦争

1863年5月、攘夷運動の中心だった長州藩は、馬関海峡を封鎖して、フランスやオランダなどの船舶に砲撃を加えた。
これに対し、翌年、アメリカ・イギリス・フランス・オランダの連合艦隊全17隻が関門海峡に襲来して、長州藩の砲台を破壊した。
馬関戦争、四国艦隊下関砲撃事件ともいう。

下関戦争を描いた錦絵

下関戦争を描いた錦絵
四カ国連合艦隊による下関襲来を、蒙古襲来になぞられて描かれている。
最新鋭のアームストロング砲に対して、長州藩は旧式の国産大砲で戦った

砲撃を加えた長州に列強連合が報復

長州藩が欧米船舶を砲撃

1863年5月10日、攘夷派が主導権を握った長州藩は下関(馬関)海峡を封鎖し、ここを航行するアメリカ・フランス・オランダの船舶に砲撃を加えた。
翌年、これに貿易上の不利益を被ったイギリスを加えた四カ国は、長州藩に報復するため、全17隻からなる連合艦隊を結成。
7月27日、横浜を出航し、下関を目指した。

連合艦隊の砲撃で壊滅する長州

一方、連合艦隊の来襲が近い事を知った長州藩は、8月4日、伊藤俊介(後の伊藤博文)に停戦交渉に向かわせるが既に手遅れであった。
8月5日、連合艦隊は、下関の前田・壇ノ浦などに築かれていた長州藩の砲台を攻撃。
圧倒的な砲撃力の前に、長州藩の砲台は壊滅状態に陥る。

陸戦部隊に上陸される長州

さらに連合艦隊は陸戦部隊を投入し、砲台を占拠して大砲を次々と破壊した。
陸戦部隊の一部は下関市街を目指して進軍。
長州藩士らと陸戦を展開している。

高杉晋作が講和に乗り出す

7日、連合艦隊は彦島の砲台を集中攻撃し、8日までには下関の砲台はほとんど破壊されてしまった。
陸戦においても旧式の銃や弓矢で応戦した長州藩に勝ち目はなかった。
長州藩は停戦を申し入れ、講和交渉の代表には高杉晋作が抜擢された。

下関の前田砲台を占領する英国軍

下関の前田砲台を占領する英国軍
前年の砲撃に対する報復として、1864年、英米仏蘭による四カ国連合艦隊により下関が砲撃された
前田浜(下関市)に関門海峡の東側入り口に近い沿岸部の、標高10〜16mほどの高台に台場が築かれていたが、この前田砲台が占領されてしまう

惨敗の果てに欧米の強さを知った長州

この戦いの後、長州藩は列強との圧倒的な国力差、攘夷の難しさを知る。
そして、イギリスに近づき、軍備の近代化を目指していく事になった。


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