切腹

武士の作法 切腹

切腹の作法

切腹の歴史は、平安時代にさかのぼり、永延2年(988年)に盗賊の袴垂保輔(はかまだれやすすけ)の処刑に始まったとされている。
その後、戦国時代には、すでに沐浴→切腹→介錯人が首を落とす→検士が確認する、という一連の「作法」が固まっていた。
ところが、江戸時代に入ると「最大の痛みを伴う方法で死ぬことが、自分の武勇を誇示する事だ」という戦国時代の切腹の概念は薄れていく。
切腹の儀式には、様式美ばかりが追及されて、自分では腹を切らない武士も多くなった。
というのも、切腹人が怖気て取り乱したりすれば、恰好が付かないからだ。

実際にはどの様に行われていたのか?

まず、切腹人は、沐浴して身を清めた後、解釈の邪魔にならないよう、普段より高く髪を結い上げ、白装束を身に着ける。
次に切腹人は、北面して座り、末期の杯を受ける。
切腹人が酒を飲んだところで、三方にのせた切腹刀が選ばれてくる。
末期の杯が済むと、いよいよ切腹である。
介錯人は、切腹人の左斜め後ろに立ち、刀を構える。
介錯の刀には、切腹人本人の刀が使われる事もあった。

切腹の順序

  1. 腹の左に刃をを入れ、右に一直線に切る。
  2. 刀を抜いて、みぞおちからその下まで切り下げる。
  3. それでも絶命しなければ、喉を突く。
  4. 介錯人が首を落とす。。

というのが本来の作法である。
しかし、江戸時代にこの作法通りに切腹が出来たのは、よほど腹の座った武士だけだった。
実際には、切腹人が刀に手を掛けた時点で首を落とすことが多かったようだ。
この時に、首の皮一枚残すのが最高の介錯だったという。
しかし、技術的にも難しく、完璧な介錯というのは殆どなかった。

「一服」という切腹

腹を切るのが、怖いという武士には「一服」と言って、毒を渡され、飲むという方法も用意されていた。
戦国時代の荒武者とは違って、天下泰平の江戸時代には、切腹を恐れる武士も沢山いたのだ。


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