外泊や旅行

武士の作法 外泊や旅行

武士は外泊や旅行は出来たのか

武士という職業の本来の役目とは、24時間体制で非常時に備え、「敵襲」の声が掛かれば、直ちに戦闘準備を始める事である。
そのため、安易に家を空ける事は出来なかった
上屋敷、中屋敷、下屋敷を構えていた大名であっても、愛人の住む下屋敷に泊まるような事は許されなかった。
台風が来ていて帰れない、などの非常時を除けば、日帰りが基本だったのだ。
なぜなら、愛人宅に滞在中に、幕府から急ぎの使いが来た時に「今夜は帰っていません。」という事にでもなれば、大問題になるからだ。

村尾嘉陵 江戸近郊道しるべ

この「外泊禁止」規則に泣いたのが、散歩好きや外出好きの武士である。
例えば、村尾嘉陵(むらおかりょう)という無類の散歩好きの武士がいた。
嘉陵は「嘉陵紀行(江戸近郊道しるべ)」という江戸近郊の散歩案内書まで出しているのだが、外泊が禁止されていた為に、早朝から出かけ、夜までに必ず帰るという、日帰り旅行を繰り返していた。

嘉陵は、浅間山を見に行った時は、まだ夜の明けない寅の一点(午前四時半)、暗い中を提灯を持って出発した。
板橋から埼玉県の蕨(わらび)を通り、大宮あたりまで歩いたところで、ようやく日が昇り、その後も歩きに歩いて、ようやく浅間山が見えたのは、未の刻(午後二時)の事だったという。

普通であれば、そこで宿を探して一泊し、温泉にでもゆっくり入りたいところである。
しかし、嘉陵はまた道を引き返し、ひたすら歩いて自宅に戻っている。
到着したのは、とっぷり日も暮れた宵五つ(午後八時)だった。

門限もあった

なお、武士には外泊禁止の他、暮六つ(午後六時)頃までに帰らなければならないという門限もあった。
娯楽に乏しい時代、一泊程度の外泊は息抜きにもなる。
それもままらなかった武士は、非常に気の抜けない職業だったのだ。

武士の外泊手続き

武士は外泊を禁止されてはいたが、江戸時代も裕福な商人や、庶民の間で旅行ブームが巻き起こる。
江戸の近場なら、江の島の弁天参りや成田山新勝寺あたり、また箱根や熱海、那須あたりまで足をのばし、温泉旅行を楽しむ事もあった。

ところが、武士の場合は、旅といえば、主君の参勤交代に同行するか、京都の二条城へ行くなど、なにかしらの命を帯びて出張する「御用道中」に限られていた。
ぶらり旅に出るなどもってのほかで、家族を連れて、行楽地へ旅行する事もなかったのである。

気の毒な話ではあるが、例外はあった。
親戚に不幸があったり、祝い事があった時である。
ただし、その時にも、面倒な手続きが必要だった。
まず、自分が所属する支配頭に、旅の用向きとお供の人数、所用日数を計算して暇(いとま)をもらい、道中奉公に許可の切手をもらってから旅に出た。
関所を通る場合は、この他、関所手形も必要である。

武士の旅姿

こうして旅の許可が出た武士は、どんな格好で出発したのだろうか。
上半身は、小袖の上に打裂羽織と呼ばれる背中の割れた羽織を着て、両手には手甲(てっこう)を付ける。
下半身は股引と裁着袴(たっつけばかま)と呼ばれる、足首の部分がすぼまった袴を着け、脚絆(きゃはん)に紺足袋(こんたび)を穿き、足元は武者草鞋を履く。
そして、腰には本差と脇差の二本差であった。

祝儀という名のチップ

庶民の旅と違うのは、それなりの禄高のある武士では、必ずお供の者が同行した事である。
例えば、江戸時代、旅の難所と言われたのは東海道の大井川だが、無事に川を渡り終えた時は、お供の若党や槍持ち、中間などにも「水祝い」といって祝儀を出したという。
武士は旅行一つするにも、格式を守る為、何かと物入りだったのだ。


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