武家の食卓

武士の日常 武家の食卓

武士の日常 武家の食卓

一日三食は江戸中期から

一日三食食べるようになったのは、江戸時代でも中期の元禄以降(1688年以降)になってからだった。
それまでは、武士でも町人でも一日二食が普通で、元禄以降も、二食の人もいれば、三食の人もいた。
当然、日によって違う人もいたであろう。
細かい規則に縛られていた武士も、食事の回数に関しては、案外と大雑把だったのだ。

下級武士はとても質素

食事の内容についてはどうかというと、武士と町人との間に対した違いはなかった。
特に下級武士は、経済的余裕がなかったので、食事もいたって質素だった。
朝食は、ご飯にお味噌汁と漬物、昼と夜の献立も、朝食の残りに1〜2品のおかずを足した程度である。
おかずといっても、野菜の煮つけ魚の干物ヒジキ豆腐があれば、御の字だった為、お世辞にも豪勢とは言い難い。

独り者は自給自足?

そこで気になるのが、下級武士の中でも、独り者の食生活である。
独り身の男性が毎日、自炊していたわけでもなく、どうやってご飯にありついたかと言えば、彼らはもっぱら「賄い屋(まかないや)」と呼ばれる業者の世話になっていた。
賄い屋は、現在でいう宅配弁当の様なもので、注文すると、料理を運んできてくれたのだ。
その他、総菜を岡持ちに入れて天秤棒で担いで売り歩く「振り売り」から買ったり、「菜屋(さいや)」と呼ばれる店売りの総菜屋を利用していた。
また、下級武士の中には、庭に野菜の苗を植え自給自足に近い生活を営んでいる者もいた。
武家は狭い町家と違って、30俵取りくらいの貧乏侍でも、100坪程度の敷地を与えられていた。
そのため、家庭菜園用に、十分なスペースを確保出来たのだ。

やはり、大名の食事は豪華

グルメな食生活を堪能できたのは、武士の中でも大名クラスである。
選りすぐりの食材を用い、お抱えの料理人が腕を振るって、刺身や酢の物、煮物、焼き物と、バラエティーに富んだ料理を楽しんでいた。
そして、その味が、今日の日本料理の原点となったのだ。

武家には食膳のタブーがあった

「農工商」より身分が高かった武士も、食生活は庶民とさほど変わらなかったが、一つだけ、庶民と武士で違っていた事がある。
武家には「食膳のタブー」があり、決して口にしない食べ物があったのだ。
例えば、魚のうち「フグ」や「コノシロ」、庶民が大喜びで食べていた「マグロ」も、武家の食卓に並ぶ事はなかった。

フグを食べない理由

高級魚としてお馴染みのフグは、いうまでもなく内臓などに毒を持っている為、現在では免許を持つ人にしか扱えない。
「フグは食いたし、命は惜しし」という言葉もあるとおり、下手に食べれば、毒にあたって死んでしまう。
武士がフグを食べなかった理由も、中毒死を避ける為であった。
最も、フグの毒そのものを避けたというより、「フグごときにあたって死ぬなど、武士にあるまじき事」と考えての事だったようだ。
そもそも、主君の為に戦い、戦場で命を散らすのが武士の務めである。
フグの毒にあたって命を落とすなど、極めて不名誉な事なのだ。

マグロを食べない理由

一方、マグロを食べなかったのは、単なる縁起担ぎだった。
マグロは別名を「シビ」というが、武家ではこれを「死日」に聞こえるといって、忌み嫌ったのである。
慶長19年(1614年)に出版された「慶長見聞集」には、「「シビ」と呼ぶ声の響き、「死日」と聞こえて不吉なり」という記述がある。

コノシロを食べない理由

「コノシロ」が嫌われたのも、縁起担ぎの一種だ。
コノシロは「腹切魚」と呼ばれ、切腹を命じられた武士の、最後の食事として出された魚だった。
また、それを食べる事は「「この城」を食べる」に通じるとして嫌われたのだ。
言われてみると、確かに縁起の悪い名前である。


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