丹波攻略と平定

光秀の丹波攻略と平定

義昭の下を去り、織田家直臣となった明智光秀に任された仕事は、丹波攻めの指揮官であった。
京都の北に位置する丹波は、義昭派信長派の国衆らが争っていた。
そして光秀は見事に丹波を平定、統治にも手腕を発揮し出世する事となる。
信長の家臣として大きく躍進する光秀をみてみる。

丹波攻めに派遣

将軍健在の頃は平穏だった丹波

天正3年(1575)6月、光秀は信長から丹波(京都府・兵庫県の一部)攻めの総大将に任命された。
丹波には朝廷や将軍の領地(御料所)が多く、また京都から近いため、現地の領主(国衆)たちは中央の政局にも関わっていた。
足利義昭が室町幕府の15代将軍に就任した後、国衆たちは義昭と信長の二人に協力的な姿勢を取っていた。

丹波が義昭派と信長派に分裂

だが、元亀4年(天正元年:1573)に義昭が信長と対立して京都を追放されると、丹波の国衆たちは義昭派と信長派に分裂し始める。
そして、両派の争いが京都にも深刻な影響を及ぼすようになっていったのだ。
信長はこの事態を解決するため、光秀を丹波へ派遣する事を決めた。

「惟任日向守」と名乗った光秀

丹波攻めを前に光秀は、7月に信長より「惟任」の名字を与えられると同時に「日向守」に任じられる。
これを受け光秀は、それまでの「明智十兵衛尉」から「惟任日向守」と名乗った。
信長は丹波の国衆たちを従わせるため、「箔をつける」為に、光秀に名族の名字と受領名(国司の官途名)を名乗らせたといわれる。

毛利の介入で丹波経路が難航

国衆らに苦戦する光秀

信長の命令を受けた光秀は、小畠永明や川勝継氏など、織田方についた国衆たちを従えながら丹波で戦ったが、戦況はよくなかった。
特に丹波国奥郡(氷上・天田・何鹿の三郡)の有力国衆であった荻野直正(1529〜78)・赤井忠家(1549〜1605)らは、義昭方について織田軍に抵抗した。
苦戦を強いられた光秀であったか、無事にこれらを攻略、11月には「丹波の領主たちが殆ど光秀側に付いた」といわれる状態になっていた。

毛利氏の介入と、味方の裏切り

これに対し、荻野直正・赤井忠家らは中国地方の戦国大名・毛利氏の一門・吉川元春(1530〜86)に救援を求め、本拠の黒井城(兵庫県丹波市)に籠城した。
光秀は天正4年(1576)1月に黒井城を攻撃したが、思わぬ敗北を喫する。
織田方についていた多紀郡八上城(兵庫県篠山市)の波多野秀治(?〜1579)が敵方に寝返った事にあった。
光秀は京都まで退却し、丹波攻めは一旦、頓挫する事となった。

戦いの最中、苦難の日々が続く

本願寺との戦いのなか、病と妻の死

丹波攻めが中断されても、光秀に休む暇はなかった。
天正4年(1576)5月には摂津国天王寺砦(大阪市天王寺区)などを拠点に大坂(大阪市中央区)の本願寺と戦ったが、ここで光秀は病に倒れている。
さらには正室の煕子(妻木氏)が11月に亡くなるなど、光秀にとっては苦難の日々が続く。

亀山築城

その一方で、光秀は丹波における新たな拠点として亀山城(京都府亀岡市)を築き、現地へ出向いて工事の進捗状況を把握していた。
苦難のなかでも光秀は、丹波攻略に向けて、着々と手を打っていたのだ。

難航する丹波攻め再開

大和・大坂方面へも出陣する光秀

天正5年(1577)10月、光秀は丹波攻めを再開し、波多野方の籾井氏が籠る籾井城(兵庫県篠山市)を攻撃した。
だが、光秀自身は大和(奈良県)の松永久秀(1508〜77)や大坂の本願寺など、反織田方の勢力と各地で戦い、また秀吉の援軍として播磨(兵庫県西部)へ派遣されており、丹波攻めに集中できる環境にはなかった。

荒木村重の謀反

さらに、光秀と姻戚関係にあった摂津(大阪府北部・兵庫県東南部)の荒木村重(1535〜86)が天正6年(1578)10月に離反し、毛利方についてしまう。
光秀は村重の説得に動くが事態は好転せず、信長は光秀らに村重らの討伐を命じる。
丹波に隣接する摂津で村重が離反した事により、丹波攻めにも影響が出ており、摂津の戦局が有利になった12月から、丹波攻めは再開される事となった。

丹波を平定

波多野氏が籠る八上城が陥落

波多野氏が籠る八上城を包囲した光秀は、城の周囲に塀や柵を構え、堀を巡らせて、兵糧攻めを敢行。
波多野氏は1年半にも亘って耐え抜いたが、やがて兵糧が尽き、さらに光秀の調略で織田氏に寝返った豪族も出て窮地に陥り、天正7年(1579)6月に降伏・落城、波多野秀治は安土で磔刑に処されている。

細川父子と共に支城を陥落させていく

八上城を陥落させた後も、光秀の丹波攻めは続いた。
宇津城(京都市右京区)の宇津頼重、黒井城の赤井忠家、国領城の赤井幸家ら、反織田方の国衆たちは天正7年の7月から9月に掛けて相次いで降伏し、さらに北の丹後(京都府北部)でも細川藤孝・忠興父子による攻略が進んだ。
藤孝はかつて光秀の上司であったが、今度は部下として光秀の丹波攻めに協力する役割を担っていた。

約4年掛けて丹波を平定

天正7年10月、丹波・丹後の攻略を果たした光秀は、信長へ報告するため安土へ赴いている。
約4年にわたって光秀を悩ませた丹波攻めが、ようやく完了したのであった。

信長より絶大な信頼を得る

信長は天正8年(1580)8月に重臣の佐久間信盛(?〜1582)・信栄(1556〜1632)父子を追放した際の折檻状で、丹波における光秀の功績を筆頭に挙げて賞賛している。
光秀は信長から絶大な信頼を得ており、織田家臣団で極めて上位の地位である「宿老」にまで昇り詰めたのだ。

戦乱で荒れた丹波を統治

丹波を復興

無事に丹波の攻略に成功した光秀であったが、まだ大きな仕事が残っていた。
長年の戦乱で丹波は甚大な被害を受け、他国へ逃れた住民も多くいたのだ。
近江国滋賀郡に加えて丹波を領する「譜代大名」となった光秀は、ここから丹波国内の復興に取り掛かる事になる。

城を改修・新築し、重臣を配置

丹波において光秀は多くの功績を残しているが、その一つが城郭の整備である。
本拠地の亀山城に加え、北西部の天田郡・横山城を改修して「福知山城」と名付け、南部の桑田郡には周山城を新築した。
また、福知山城には明智秀満(1536?〜1582)、黒井城に斎藤利三(1534〜82)を配置し、自らの重臣に各地の支配を任せ丹波の支配体制を確立していった。

治水工事と年貢の免除で民を労る

さらに度重なる氾濫で民衆を苦しめていた由良川の治水に着手し、地子銭(税金)を免除するなど、領内を安定させる為の政策を執っている。
これに感謝した人々は江戸時代に光秀を神として祀り、信仰した。

他大名の領国支配に倣った丹波平定

これらの工事は武士の知行高(収入)や村の年貢高に応じて、丹波国内の人々に「国役」として賦課された。
こういったシステムは、信長の支配地域ではあまり見られず(北条や武田は採用済み)、光秀は領国支配に関しても、積極的に他国の施策を情報収集していた事が覗える。


↑ページTOPへ