光秀の年齢(生年)

光秀は何歳で死去したのか?

本能寺で主君・織田信長を討った明智光秀だが、その年齢は分からない
光秀が何年に生まれたのかについて、同時代の史料に記されていない為だ。

月百姿「山城小栗栖月」

月百姿「山城小栗栖月」(月岡芳年作)
明智光秀が小栗栖で落ち武者狩りに遭う場面
国立国会図書館蔵

謎に包まれた光秀の生年

『明智軍記』は当てにできない

江戸時代より長らく通説とされてきたのは、『明智軍記(1688〜1702年)』にある享禄元年(1528)で、享年は55歳である。
この説は光秀の系譜関係をまとめた『明智系図』など、後世の歴史書や系図でも採用されているが、『明智軍記』は光秀が死去してから100年以上後に書かれたものだ。
同時代の史料と整合性が取れない記述が多いため、信憑性は薄いといえる。

明智軍記

『明智軍記』の辞世部分(国文学研究資料館蔵)
「五十五年ノ夢」とある

『当代記』によると享年67歳

一方、『当代記(1624〜1644年)』には67歳で死去したとあり、ここから逆算すると生年は永正13年(1516)となる。
『当代記』は光秀が生きた時代に近い17世紀前半に書かれ、同時代の史料と整合性が取れる記述も多いようだ。
よって、『明智軍記』よりも信用できる史料とされ、近年では永正13年説の方が有力視されている。

当代記

『当代記』の一部(国立国会図書館蔵)
「百姓等に被打殺(歳六十七)」とある

70歳説も…

なお、光秀の享年を70歳と記した史料もあり、この説に従えば、生年は永正10年(1513)という事になる。
ただし、この70歳説はほぼ信用されていない。

本能寺の変と光秀の年齢

光秀はかなり高齢だった

主君・信長が好んだ謡曲『敦盛』で「人間五十年」と謳われていた。
人の寿命がおよそ50年と云われた時代に、55〜67歳といえば光秀は相当な高齢であり、とっくに引退していてもおかしくはない。

自身の老いを自覚していた光秀

天正10年(1582)6月に光秀が、本能寺で謀反を起こした直後、細川藤孝(幽斎:1534〜1610)・忠興(1563〜1646)父子に書状を宛てている。
そのなかで光秀は「私が謀反を起こしたのは、忠興らを取り立てたいと思ったから」「京都の周辺を平定した後は、十五朗や与一郎(忠興)に譲りたい」と語っている。
これは光秀が自身の老いを自覚しており、引退を望んでいた事の証拠とされている。

秀吉から見ても高齢だった光秀

光秀が高齢であった事を示す史料はまだある。
17世紀の初めに羽柴(豊臣)秀吉(1537〜98)の逸話をまとめた『川角太閤記』だ。
これには光秀が謀反を起こした理由として「老後の思い出に、一夜でも天下に名を轟かせたいと思い切ったのだ」という記述がある。
やはり、光秀=高齢と認識されていた事が分る。

老い先短い身を案じた光秀

信長を信用してなかった?

近年では、光秀が高齢だった事を前提にして、「老い先短い身を案じた光秀が、一か八かの賭けに出て信長を討った」という見方が多い。
光秀の実子であった光慶(享年14)は非常に幼く、我が子が育つ前に自身が果てる事を危惧していた可能性もある。
この頃、信長は自身の家臣を次々と追放しており、光秀は「自分亡き後、信長は我が子を使ってはくれないだろう」と考えていたかも知れない。
光秀の生年は「本能寺の変」の背景を探る材料の一つとして、極めて重要な事だといえる。


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