国家総動員法

国家総動員法

戦争継続の為、政府に全ての権限を集中

国家総動員法(旧字体:國家總動員法)は1938年(昭和13)に第1次近衛内閣によって成立・施行された。
日中戦争の長期化を受けて、戦争を継続する為に政府権限をほぼ無制限に広げる法律だった。
国民・土地・モノなど全ての資源を政府が統制運用できる(総動員)旨が規定された。
この法律によって国民は戦争への協力を強制される事となる。

日中戦争が長期化、国民に戦争協力を促す

近衛内閣が国民精神総動員運動を展開

1937年の日中戦争勃発後、近衛内閣は日中戦争の長期化を想定して「挙国一致、尽忠報国、堅忍持久」のスローガンを掲げた国民精神総動員運動を展開し、国民の戦争協力を促していった。
そして12月に招集された議会で、その後の戦時体制を決定づける事になる「国家総動員法」などの法案が提出される。

戦時下の政府権限がほぼ無制限に

「国家総動員法」は、基本的には戦時下における政府の権限をほぼ無制限に広げる法案であった。

あらゆる物事に政府が介入できるように

例えば、総動員業務のための国民の徴用、労働争議の予防と解決といった内容に始まり、企業の活動に関わる輸出入の制限・禁止、会社の設立・増資・合併や利益金処分などの制限や禁止、設備投資の新設・拡張の制限や禁止なども含まれた。
さらに、出版物の記事掲載の制限・禁止なども入り、さらには国民登録、物資の備蓄、試験研究など、ありとあらゆる分野に渡って政府が介入できるようになった。
細目について政府が発動を決定し、その後に勅令と省令とを出して具現化するという形をとる事で、各事例に応じて政府が自由に規則を定める事が出来る事になっていた。

政党側は猛反対「天皇大権をも侵している」

生活のあらゆる面に制限が及ぶ国家総動員法案に対し、政党側は猛反対した。
特に、総動員法が、立法府である議会を通さずに法規を定める権利を認めた「委任立法」である事が問題視され、天皇大権を侵すような法案だとの批判も出ていた。
しかし、政党側も一枚岩ではなく、社会大衆党などは当初から法案に賛成の立場を取っていた。

陸軍の圧力が法案を成立させる

「黙れ」事件

1938年3月3日には陸軍省の佐藤賢了中佐が衆議院の国家総動員法委員会で法案の説明を行う。
しかし、佐藤に説明資格があるのかという野次が飛ぶと、佐藤は「黙れ!」と叫び、議会は紛糾した。

政党側がやがて屈する

法案の成立に向けて、陸軍から非常に強い圧力があった。
政府側も政党勢力を懐柔するため、法案の一部修正や削除に応じるなかで、やがて政党は屈していった。

国家総動員法が成立

3月16日に法案は全会一致で衆議院を通過、貴族院でも通過し、国家総動員法が成立した。
そして国家総動員法は4月1日に公布、5月5日に施行された。

統制令が次々と制定

そして、同年1938年の秋から、次々と厳しい統制令が出されていく。

近衛内閣が総辞職、平沼内閣が発足

国家総動員法を成立させた近衛内閣であったが、日中戦争の長期化に打つ手はないと見て、1939年1月4日に内閣総辞職する。
後任は、枢密院議長の平沼騏一郎を推進、翌日1月5日に平沼騏一郎内閣が発足し、平沼内閣がさらに戦時治体制を整えていく。

平沼内閣がさらに戦時治体制を整えていく。

企業への配当の抑制が行われ、1939年の春には賃金統制令・会社利益配当および資金融通令が制定、国民精神総動員委員会が設置された。
さらに、米穀配給統制法、国民徴用令、価格統制令、地代家賃統制令、会社経理統制令などへと広がっていく。

国家総動員法の改正

改正でさらに政府権限が強化

1941年3月には「国家総動員法」は大幅改正となり、いっそう強化された。
1939年4月と1944年3月にも小規模な改正が行われ、改正毎に法律の統制範囲は拡大、一般の労働者に対して直接命令できるようになり、さらに罰則までも強化されている。


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